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シンポジウム:前期旧石器問題を考える -報告-



 1月21日、東京都千代田区の日本教育会館で「前期旧石器問題を考える」と題した公開シンポジウムが開催された。昨年11月5日の毎日新聞報道によって明らかとなった藤村新一氏(前東北旧石器文化研究所副理事長)による旧石器発掘捏造事件を受けて、文部省科学研究費特定領域研究「日本人および日本文化の起源に関する学際的研究」考古学班が主催、毎日新聞社が後援に加わった。
 シンポジウムの出席者は、佐原真氏(国立歴史民俗博物館館長)、小田静夫氏(東京都教育庁文化化主任学芸員)、春成秀爾氏(国立歴史民俗博物館考古研究部長)、岡村道雄氏(文化庁記念物課主任文化財調査官)、馬場悠男氏(国立科学博物館人類研究部長)である[1]。会場には全国から研究者や一般市民ら800人を超える参加者[2]が集まった。

 はじめに司会の佐原氏が、「旧石器捏造」とも言われている今回の事件について「石器自体は偽物ではないので旧石器遺跡捏造という言い方のほうが適切」と指摘。また自信作であったという佐原氏の著書「大昔の美に想う」(1999)の第1項目に、疑いが持たれている藤村氏発見の石器の写真を使用したため「けじめをつけるべく準備をしている」と話した。そして「自らが今回の事件にタッチしていなくても、絶対多数の考古学の人は成果を認めてきたのではないか」と指摘し、今回のシンポジウムの目的について「(各方面からの批判を踏まえて)考古学はどうすべきかという基礎をつくりたい」と話した。



 小田静夫氏はこれまで、宮城県の前期旧石器時代遺跡の発見について否定的な見解を表明(小田・キーリ1986など)してきた。シンポジウムでは、小田氏が発掘調査に関わり、批判の基礎資料としてきた東京・武蔵野台地での後期旧石器時代遺跡の例を紹介。宮城県の前期旧石器時代遺跡との相違点を挙げ[3]、武蔵野台地の発掘ではあり得ない状況がみられるとした。このことから「前期旧石器遺跡と呼ばれる場所(地層面)には、人間の生活した痕跡が認められず、また出土した石器類の観察などから、石器製作行為やその場所で使用した痕跡(破損品など)もなく、ただ「石器の単品」が平面上にまばらに、また穴の中に入れられて存在したという解釈しかできない」とあらためて批判した。
 さらに1986年に論文(小田・キーリ)として発表した批判に対して旧石器研究者の反論はなかったが、その答えとなる形であらわれた1987年の多摩ニュータウンNo.471-B遺跡発見[4]という事実についても、不可解な発見状況[5]であるとした。小田氏はそうした疑問点を当時指摘しなかったことについて「私の職場も一つの組織であり、うっかりしゃべったら、とうに辞めさせられていたかもしれない。今まで二十何年間生きてきたのは、そこで口をつぐんできたから。(今回の事件は)それが封印された結果なのだろう」と話した。
 今後の旧石器研究について小田氏は「極論ではあるが、(藤村氏が直接発掘に関与した33遺跡を含め)灰色になった資料はいったん捨ててしまったほうが、日本の考古学にとってプラスではないか」とした上で「3万年前以前に日本列島に人類が生活していた可能性は極めて高く、早く真の3万年を遡る遺跡を発見して欲しい」と話した。



 春成秀爾氏は捏造発覚直後に仙台や埼玉に赴き、これまで発見された前・中期旧石器を一点一点調べた結果、出土石器の中にガジリ痕[6]や褐鉄鉱[7]・黒土の付着[8]といった表面採集資料[9]に特有の痕跡を残すものが認められたという。上高森遺跡で1995年発見の石器埋納遺構2のうち2点、1994年発見の石器埋納遺構1のうち1点にも同様の痕跡がみられたといい「最初の94年発見の埋納遺構がダメとなると、それ以降の埋納遺構もまずダメというのが普通」と話した。また、石灰岩洞穴の出土石器には石灰分が膜状に付着していることが多いとして「岩手県ひょうたん穴遺跡の出土石器に付着がないとすれば、本来そこにあった石器であるかを疑う根拠となる」と話した。
 上高森遺跡などで発見されている箆状石器と呼ばれる石器については「縄紋時代晩期の遺跡で発見されるものと類似性が高く、石鏃など典型的な石器を除けば宮城県摺萩遺跡の石器組成に近い」として宮城県内で採集された縄紋時代の石器が捏造に使われた可能性を指摘した。
 上高森遺跡では、1994年から続いている発掘調査で400平方メートル程度の範囲で30万年前から70-80万年前まで10層の石器出土層が確認されている。春成氏は「現場は広い平地で、原人が同じ場所を数十万年間、繰り返し繰り返し利用しているとは考えづらい。ひょうたん穴遺跡では狭い洞穴の奥でのみ石器が発見されているなど出土状況に不自然な点が多い」とした。座散乱木遺跡や不動坂遺跡では、発見された石器の集中地点がすべて発掘調査区の隅に寄っていることから「捏造した人の心理状態が現れているのではないか」と説明した。
 福島県二本松市の原セ笠張遺跡で出土した石器に関しては最近押圧剥離による石器の存在が指摘されている。これについて春成氏は「押圧剥離技術はヨーロッパや西アジアでは後期旧石器時代にしかない。中国では周口店で押圧剥離に類似したものが見つかってはいるが、原セ笠張遺跡の場合は黒土の付着した石器が見られることから縄紋時代の石器である可能性が高い」とした。
 春成氏は「疑惑の遺跡は宮城県の上高森、中島山、山形県袖原3、岩手県ひょうたん穴、福島県原セ笠張、埼玉県小鹿坂、長尾根、長尾根北、長尾根南など。全部が否定されるかどうかは分からないが、少なくともその中に捏造とされるものが含まれていることは確か」と結論付けた。



 岡村道雄氏は、座散乱木遺跡や馬場壇A遺跡などの調査に6年間参加した。日本の歴史01巻として昨年10月24日に刊行された「縄文の生活誌」(講談社刊)の巻頭で上高森遺跡の埋納遺構を取り上げ、藤村氏の業績を解説していたことについて「捏造が明らかになった遺構とは別のものだが、十分な証拠に基づく、慎重な態度が必要だった」と陳謝。「一刻も早く、混迷している日本列島の歴史の始まりについて、誰もが安心して記載できるよう検証していかなければいけない」と述べた。
 捏造発覚以後の旧石器研究を取り巻く状況については「疑問の材料、不安な材料を全部集めて否定的な空気が大変強くなっている」と分析。「確実な検証をするうえでも、冷静に確かな科学的方法をまず考えて慎重に検討すべき」と理解を求めた。
 岡村氏が馬場壇A遺跡などを発掘調査した当時については「世界的に用意された先端の技術を駆使した。旧石器時代の研究材料は少ない中で、当時の歴史を再構築するのは難しいが、少なくとも世間で言われているように、旧石器時代研究は歴史が浅く、学問的にレベルが低いという批判は違うのではないか」と話し、「藤村氏が発掘にかかわった33遺跡[10]、石器を発見した186遺跡すべての科学性を今の視点からながめる必要がある」とした。
 昭和51年から52年頃、石器文化談話会の会員30名前後が月一回、藤村氏とともに断面観察で遺跡を探し歩き、60数か所の遺跡が発見された(東北歴史資料館1985)。それらの遺跡のほとんどは日当たりの良い南東向きの斜面で、沢を囲むような立地条件で、縄紋時代早期の傾向と共通していた。このことから岡村氏は「一定の場所を選んで住んでいた当時の人間の選択性を、現代の人間が差しはさんでいくことはできない」と主張した。
 旧石器時代の遺跡調査では、露頭の断面観察で石器が発見された後、1年程度をかけて粘土含有量やプラントオパールなどの科学的な土壌分析で当時の地表面が確定、その後フィッショントラック法、古地磁気法、熱ルミネッセンス法などいくつかの年代測定を用いて遺跡の年代を調べていく。最終的に遺跡の年代が判断されるまでには2年程度を要するという。岡村氏は「当時の地層は土色の変化がほとんどなく、現場での肉眼観察だけで地表面を想定して石器を埋め込んだとすれば、後の分析結果との整合性がなくなる」と話した。
 また、藤村氏が関与していない前・中期旧石器時代の遺跡がいくつかあり、岡村氏は「そうした遺跡からでも、日本の旧石器時代前期の後半から中期の歴史が描ける。それらには藤村氏の発見によって構築されたものと矛盾しない点が多々ある」と話した。中期旧石器時代の終わりごろ(4万年前頃)とされる長野県野尻湖遺跡では、藤村氏が発見したものと非常によく似た石器群が見つかっているという。また岩手県金取遺跡からも数点の完成品だけで構成される石器群が見つかっており、岡村氏は「小田氏の言う単品の石器が平面的に並んで出土している。すぐ脇には炭粒の集中もみられた」と話した。さらに「相沢忠洋氏が発見した不二山、権現山という遺跡もほぼ5万年前の確かな資料。最近は北九州の辻田遺跡、馬責場遺跡などから典型的なものが出てきている。あるいは、加生沢遺跡は20万年前の地層だろうと言われている所から石器が出てきており、そうした遺跡から描ける確かな部分もある」との考えを示した。
 岡村氏は「正しい手続きで検証作業を進め、研究者で力を合わせて一刻も早く正しい歴史を描きたい」と話した。



 馬場悠男氏は、人類学の立場からこれまでの考古学の研究姿勢を客観的に分析し「考古学全体として、年功序列と慎み深い意見発表で、先輩の業績を批判しないことがある。私たち人類学の分野でも、うっかり若いうちにやるとまともな職につけなくなる可能性はあった」と話した。
 「今までの常識とは整合しない大発見によって、列車“前・中期旧石器号”が断崖絶壁に向かって驀進している場合には、少なくとも止める工夫をすべきだったが、そういうことをした考古学者はほとんどいなかった。格好よさそうだから列車に乗ってしまったというのは、節操がないと批判されてもやむを得ない。一番ひどいのは、列車に乗って騒いでいたのに、乗っていなかったように知らん顔している。これは恥を知るべきだ」と厳しく指摘した。
 馬場氏は今回の事件について、日本の考古学者の特殊な状況が遠因であるとした。その一つとして考古学の発掘調査と研究の二重構造性があり、「考古学には現場の匂いを知らないオピニオンリーダーが存在しているから、今回のようなとんでもないことが起きた時に気づかなかったのだろう」という。ほかに権威者に対する過度の追従、科学的批判精神の不足、確率統計的な蓋然性と再現性に対する認識不足などをあげ、さらに国外で自ら主導する前・中期旧石器遺跡の発掘調査をほとんど経験していないことも原因であるとした。
 馬場氏は日本人の古人骨を研究する一方、インドネシアでジャワ原人の発掘を手がけている。「インドネシアでは80万年ぐらい前の地層で条件のいい所を探すが、石器あるいは古い人骨が出てくるのは非常にまれだ。100年前にジャワ原人が発見されてから、発掘で化石が得られたのは3回ほどしかない。こういう経験から見ると、藤村さんが違う所に行くたびに石器が見つかるという可能性はほとんどゼロだと私たちは考えている」と話した。
 馬場氏は、日本列島で発見されている更新世人類、あるいは旧石器時代人類とされるものについて、自らの見解を述べた[11]。これによると日本の更新世人骨は、すべて現代型新人に属し、その中では、およそ1万数千-2万年前より古い(港川人に代表される)沖縄の人骨と、それ以降の本土および沖縄の(本土縄紋時代人と類似した)人骨との間に形態特徴の違いがあるという。



 討論では、春成氏が他の遺跡でも捏造が行われていた証拠として指摘したガジリや鉄分・黒土の付着などについて、岡村氏が「まずそうした現象のメカニズムの解明が必要。ガジリの場合は縁辺に打撃点が残らないという特徴がある。農機具が一度引っかかっただけで鉄分の付着が生じるという現象が本当に起こるのかは疑問。ぜひ実験的に確認して欲しい。後期旧石器時代のプライマリな出土品にも同様の付着物が多々あり、十分に証明されている方法ではない」と話した。これに対して春成氏は「あくまで表面的な観察の結果であり、今後推定を確定に持っていきたい。付着している黒土が畑の耕作土に由来するかどうかなど、調査して欲しい」とした。小田氏は「表採品は一般に灰色を呈し、発掘品とは見た目が異なる。そうした点からも判別できるのではないか」と話した。

 岡村氏は「電子スピン共鳴法[12]によって上高森遺跡の焼けた石器を分析したところ、25万-75万年前と大きな幅を持っているが、全然縄紋時代のものではないという測定結果がある。黒曜石水和層分析(年代測定)法[13]というものがあり、同一石材を切断して分析することで上高森遺跡の石器と縄紋時代の石器を比較することが可能ではないか」と提案した。また、馬場壇A遺跡では風倒木の埋土中で、志引遺跡では近世の土坑の中で縄紋時代草創期の遺物が発見されており「そうした例も再検討の対象として考えている。ただしその再検討は正しい手続き、科学的に確かな方法でなされなければならない」と話した。

 フランスで4年半の発掘調査経験を持つ竹岡俊樹氏(共立女子大学非常勤講師)は「馬場壇A遺跡20層の石器にもガジリの痕跡が認められた。層位優先の考え方ではなく、私は石器の外見から旧石器時代か縄紋時代かの区別ができる」と発言。岡村氏が「情報を共有できないことについてこの場では議論できない」とすると司会の佐原氏は「今は個々の遺跡についての検討よりもどのような方向で検証を進めるかを考える場にしたい」と応じた。佐原氏が竹岡氏に「藤村氏らが発掘した石器の中に白と考えられるものが含まれている可能性や、縄紋時代と旧石器時代の石器の見た目が似ている可能性はないのか」と問い掛けると、竹岡氏は「その可能性はある」とした。

 ひょうたん穴遺跡の調査に携わった菊池強一氏(岩手県立伊保内高等学校)は石器表面の鉄分の付着について「褐鉄鉱は人工的に付くものと、自然に付くものと2種類あり、すべて人工的なものとは言えない。褐鉄鉱が付いてあるからといって、それがすべて後世の人為的なものという判断はおやめになった方がいい」と話し、付着の状態によっていくつかのケースに分類が可能で、耕作によるキズが原因の場合は機械的であるなど比較的容易に判別できるとの見通しを示した[14]。東京都立大学の小野昭氏は、現在作成中の真人原遺跡についての報告書のなかで石器の鉄分付着について表採品や層による違いなどを分析していると話した。

 「最古の日本人を求めて」の著書(1987)がある河合信和氏は、藤村氏の功績を高く評価してきた。「上高森遺跡の埋納遺構について祭祀行為が行われていた可能性については疑問をもっていたが、一方で藤村氏の活躍を認めてきた」と振り返った。佐原氏は「信じることは学問を進めない。疑うことが進めていくということを私たちは再認識しなければならない」と語った。

 今回の捏造事件は海外でも報じられた。韓国では「歴史の美談に走りやすい日本人の体質と右翼化傾向のあらわれ」として取り上げられ、ドイツでは「チェック体制の甘さ」が指摘されたという。英科学誌「Nature」でも報じられた。
 馬場氏は「日本では批判が個人攻撃と受け取られがちで、研究者相互の批判が欠けている。論文で批判を展開すると日本では個人的な喧嘩になってしまうが、アメリカの場合は私生活とはっきり区別されている」とし、小田氏も「他の研究者に批判してもらうことも必要なのに、他人の研究成果には消極的だ」とした。

 教科書問題について、佐原氏は“弥生土器はロクロ使用”、“縄紋土器は曲線的で弥生土器は単純な紋様”、“縄紋土器は低温で弥生土器は高温で焼かれた”という説について批判を繰り返してきたことで教科書からはそうした記述がいつのまにか消えたという。稲の起源についてはガンジス‐アッサム‐中国雲南という研究上の変遷をたどって現在に至っているが、教科書では未だにガンジスと記載されているといい、「教科書の書き換えには長い時間がかかるが、一方で上高森遺跡は簡単に掲載されてしまった」と話した。馬場氏は「ヨーロッパの旧人の一種がネアンデルタール人で、現代ヨーロッパ人の祖先ではない。“旧人(ネアンデルタール人)”という記述が誤った認識を植え付けている。人類学の分野に関する記述では30年前の常識を未だに踏襲している」という。佐原氏は「ある特定の一分野の専門家が専門外の分野についても記述する場合が多く、間違いがあるのが普通という現状がある」と話し、春成氏は「教科書執筆に学界がタッチしていない」と指摘した。

 馬場壇A遺跡で石器の発見された20層上面は11万-13万年前の軽石層の下位、火山灰で良好に保存された生活面から石器が発見された。石器を使ったり、作ったりするとチップと呼ばれる微小な石片が遺跡に残される。岡村氏によれば通常1cm以下の遺物の検出率は50%程度だが、馬場壇A遺跡では石器が出土した地層の土をすべて採取して洗浄した結果5か所から1点ずつチップが発見されたという。同様に土壌の脂肪酸分析[15]では石器とその集中範囲からは動物由来の脂肪酸が検出されたが、それ以外の場所からは植物性の脂肪酸しか検出されなかったといい、熱残留磁化法[16]による測定では焼けた石器の出土した付近に熱を受けて磁化した炉跡と考えられる部分が見つかったという(東北歴史資料館・石器文化談話会1989)。「石器が発見された後に目には見えない情報について分析するのだから、捏造があれば分析結果と石器の平面分布に矛盾が生じてしまう。そうした証拠からクロスチェックできるのではないか」と岡村氏。また「調査区全体を5年かけて発掘した結果、谷頭を囲むように石器の集中地点が分布していることがわかった。捏造ならばあらかじめ微地形を予測していたことになる」と話した。

 佐原氏は現在の学界の状況について「“一億総ざんげ”は危険だ。結果的に誰も謝っていないということになる。謝らなくていい人と謝らなければいけない人がいるはずで、誰が、どこがまずかったのかを冷静に考える必要がある」と指摘した。また「温度差はあるが、何とか真相を究明しようということでは皆一致しているはず。その批判が個人攻撃に終わらないで、学問のための批判ということで、何とかこの問題を解決の方向に持っていきたい」と語った。



 今回の旧石器発掘捏造事件により、これまでに藤村氏が発見・発掘に関わってきた全ての遺跡で捏造が行われていた可能性を指摘するさまざまな疑問点が提示され、日本列島における前期旧石器時代の存在そのものが疑問視される事態に至った。このことは、旧石器研究者が重く受け止めなければならない事実である。
 また一方で捏造という予期せぬ出来事により、発掘調査におけるチェック体制の甘さも浮き彫りとなった。今後徹底した検証作業とともに、再発防止に向けた新たな取り組みが必要となろう。

馬場壇A遺跡20層上面の遺物分布(東北歴史資料館・石器文化談話会1989)



■参考引用文献等
東北歴史資料館1985
 『江合川流域の旧石器』「東北歴史資料館資料集」14
小田静夫・C.T.キーリ1986
 『宮城県の旧石器及び「前期旧石器」時代研究批判』「人類学雑誌」94-3
河合信和1987
 『最古の日本人を求めて』新人物往来社
東北歴史資料館・石器文化談話会1989
 『馬場壇A遺跡V』「東北歴史資料館資料集」26
佐原真1999
 『大昔の美に想う』新潮社
旧石器文化談話会2000
 『旧石器考古学辞典[17]』学生社
岡村道雄2000
 『縄文の生活誌』「日本の歴史01」講談社
国立歴史民俗博物館春成秀爾研究室編2001
 『シンポジウム:前期旧石器問題を考える 発表要旨』
松浦秀治2001
 『日本の「旧石器時代人骨」の年代』
 「シンポジウム:前期旧石器問題を考える 発表要旨」
小田静夫2001
 『日本の旧石器と前期旧石器の問題』
 「シンポジウム:前期旧石器問題を考える 発表要旨」
菊地強一2001
 『石器の産状は何を語るか‐検証の一歩前進のために‐』「科学」71-2
旧石器文化談話会2001
 『旧石器考古学辞典(増補改訂版)』学生社



[1]ほかに誌上参加として松浦秀治氏(お茶の水女子大学生活科学部助教授)が「日本の「旧石器時代人骨」の年代」
と題した論考を寄せている(松浦2001)。松浦氏は現時点での日本列島の旧石器時代人類の編年をまとめ、具体的な年代が推定されているものでは沖縄本島の山下町第一洞穴人(約32,000年BP)とした上で「最近の年代学的再検討の結果が出るたびに、「旧石器時代人骨」の資料の数が減少するという状況であり、(中略)先人のなみなみならぬ努力をもってしても、日本で旧石器時代人骨を探すのがいかに難しいことであるかということを再認識する結果」と振り返る。将来日本での人骨発見の可能性については、過去100万年間で約60-65万年前にトウヨウゾウが、約35-40万年前にナウマンゾウが中国大陸から日本列島に渡ってきていることを挙げ、この時期に中国大陸で生活していたホモ・エレクトゥス(原人)が共に渡来していた可能性がある(65万年前を超える可能性は低い)とする。
[2] 2001.01.26毎日新聞報道による。
[3]宮城県の前期旧石器について小田氏が挙げた疑問点を列挙する。
(1)石器・剥片類集中部が小規模で遺物の点数が少ない。
(2)石器・剥片類集中部が必ずといっていいほどグリッド隅に寄っている。
(3)石器埋納遺構の掘り込み穴と石器の配置が不自然。
(4)調理施設や炉の縁石、石器製作用の台石に使用された礫群・配石などの遺構がみられない。
(5)炉と考えられる炭化物片の集中がみられない。
(6)石器・剥片類集中部のなかに同一母岩・石質はなく、全て単品で接合関係が認められない。山形県と宮城県の石器が接合した例(直線距離にして約30km)は旧人・原人の行動範囲の距離などを考慮するときわめて奇異なことである。
(7)石器製作工程を示す器種がなく、小剥片であっても全て使用の痕跡をもつ。
(8)破損品の石器がみられない。
(9)石器がレベル差を持たずに水平に出土し、地層の節理面に貼り付くように発見される。などである。
さらに、1984年の馬場壇A遺跡での熱残留磁気による炉跡の推定、脂肪酸分析による動物の解体作業の存在などについて、脂肪酸分析は植物質か動物質かという程度の解釈しかできないなど分析科学の発達によって多くの問題点が浮上しており、遺跡の証明としては利用できない方法であったとした。
[4]小田氏(2001)によれば、1986年に石器文化談話会が多摩丘陵と武蔵野台地で2度にわたり前期旧石器遺跡の探索を行った翌年、藤村氏からの連絡による再踏査で東京都稲城市の多摩ニュータウンNo.471-B遺跡が発見された。石器は東京パミス層(TP:4-5万年前)直上のローム層で5点が断面採取され、その後2ヶ月に及ぶ東京都埋蔵文化財センターの緊急発掘調査では、藤村氏の参加期間中に6点、帰った翌日に1点の石器が発見された(1点は詳細不明だが自然石)という。
[5]小田氏(2001)によれば、前半の10点がTP層直上、後半の3点がTP層直下のローム層からの発見であるという。小田氏は宮城県の前期旧石器について水平な出土状態が不自然であるとしながらも、当該遺跡に関してはTP層を挟んで上下から出土している点が不可解であるとする。ほかに(踏査による遺跡発見時に)石器が崖線に沿って出土していることや、(発掘調査で)出土直後の石器にロームの付着がなかったことなどを挙げている。
[6]ガジリ痕は、畑で耕作中に鍬・鋤や耕運機といった農機具で、あるいは発掘中に移植ゴテなどで石器の一部についた傷をいう。旧石器時代に石器を使用中にできた傷とは、剥離面の新鮮度が異なるため容易に区別することができる。
[7]石器の表面に褐鉄鉱と呼ばれる鉄分の付着がみられることがある。春成氏はこの痕跡を農機具や移植ゴテなど鉄製の刃先で擦ったあと、付着した鉄分が錆びたものであるとした。なお、褐鉄鉱の付着に関しては菊地強一氏のパターンごとの分析による論考(2001)も参照されたい。
[8]旧石器時代遺跡に特有の黄褐色のローム層(赤土)に対し、縄紋時代の地層や畑の耕作土を一般に黒土と呼ぶ。春成氏は石器に付着している黒土が縄紋時代の包含層や畑の耕作土に由来するものとしている。
[9]遺跡に対して発掘によって遺物を検出するのではなく、地表面を観察し、そこに散布する遺物を採集することを表面採集といい、それによって得られた遺物を発掘資料と区別して表面採集資料と呼ぶ。表面採集は遺跡の分布調査の中心的な方法である。表面採集資料は、耕作などによって原位置から移動させられたものが地表面に露出したものである。
[10]前・中期旧石器時代のほか、縄紋時代草創期の2遺跡、後期旧石器時代の1遺跡を含む。
[11]日本列島で発見されている更新世人類について馬場氏が述べた見解を挙げておく。
(1)葛生人骨(栃木県):発見されている8点のうち動物のものらしいものがあると最近はっきりした。4点は人間であることは間違いなく、このうち3点を研究しているが、あまり古い特徴はない。形態学的に縄文時代以降の人骨と特に変わるところはない。もう1点をフッ素含量などで年代を調べている松浦秀治お茶の水女子大助教授によれば、人骨には古いものはないが動物の骨の中にはかなり古いものがあるという暫定的な結論がだされている。
(2)浜北人骨(静岡県):断片的な人骨化石で、年代は14,000-18,000年前と幅が広い。人骨の形態は下層出土の脛骨以外は縄紋時代人と似ている。
(3)三ヶ日人骨(静岡県):人骨の形態は縄紋時代人とよく似ており、年代は18,000年前を超えない。
(4)牛川人骨(愛知県):人間の骨ではないだろうと考えている。インドゾウの子どものすねの腓骨(ひこつ)に近く、ナウマンゾウの子どものすねの骨の可能性も考えられるが、いずれにせよ普通の人間の骨ではないと考えられる。
(5)明石人骨(兵庫県):20年近く前に研究して、原人でなく新人のものであるとの見解を発表している。縄文時代以降という可能性が一番強く考えられているが、いわゆる本当の現代人かどうかは分かっていない。
(6)聖嶽人骨(大分県):2万年近く前の中国の山頂洞人の化石との類似性が指摘されたが、最近の研究で江戸時代の人骨にも山頂洞人とよく似たものが多く存在することが分かった。聖嶽人は、江戸時代人で類型をいくらでも見ることができる。
(7)山下町第一洞穴人骨(沖縄県):約6歳の大腿骨と脛骨である。年代は32,000年前より古く、現在のところ理化学的年代の明らかな日本の化石人骨の中で最古といえる。初期の現代型新人の特徴に一致する。
(8)港川人骨(沖縄県):前頭骨の部分が非常に小さいことや側頭筋というかむ筋肉の入っているところが非常に大きいことなど、インドネシアのワジャク人との類似性が高い。18,000年ほど前のものと考えられ、日本の更新世人を代表するものと考えて問題ない。
(9)ピンザアブ人骨(沖縄県):部分的な化石人骨で、年代は26,000年ほど前と考えられる。港川人にやや先行する集団と考えられる。
[12]ESR法。ウランなどの天然放射性核種や宇宙線などにより、鉱物や化石中に蓄積された放射線損傷量から年代を測定する方法。適用年代幅は対象によって大きく異なり、主に対象となる炭酸塩では2万-200万年程度とされる。放射線損傷の減少やリセットは光・熱・圧力・再結晶など多くの原因で生じる(旧石器文化談話会2000)。
[13]黒曜石水和層年代測定法。黒曜石製遺物の年代測定法。黒曜石は水を吸収することで表面から光沢が失われていく。光沢のない表面の層を水和層という。水和層を形成する際、気候、黒曜石の化学組成、埋没状態が同一条件下の場合、時間の経過とともに厚さが一定の速度で増す。この原理から水和層の厚さを測定して制作年代を推定する(旧石器文化談話会2000)。岡村氏はこの方法が珪質頁岩にも応用できる可能性があるとした。
[14]その後褐鉄鉱付着についてパターンごとの分析による論考(菊地2001)が発表されている。
[15]残留脂肪分析法。動植物の主要な成分の一つである脂質(脂肪・油脂)が長期間安定した状態で依存することから、遺物に残存する脂肪の組成を分析し、その種を判定する方法。より厳密な判定には、酵素免疫測定法などを併用する必要がある。
[16]強磁性体は磁場中で高温状態から冷却しキュリー温度を通過する際、強い誘導磁場を残す。この現象を利用し過熱の有無を検証する方法。遺跡内で約500℃以上での比熱部位が検出できる場合がある(旧石器文化談話会2000)。
[17]増補改訂版(旧石器文化談話会2001)が出版されている。藤村氏が関係した上高森遺跡,高森遺跡,座散乱木遺跡,馬場壇A遺跡,多摩ニュータウンNo.471-B遺跡,薬莱山遺跡群に関連する項目が削除(富沢遺跡については,焚き火跡が検出されていることから遺跡それ自体の捏造はないものとして削除対象から除外)され、中期旧石器時代とみられる金取・柏山館跡遺跡など新たに25項目が追加された。また今年になって聖嶽洞穴出土の石器と人骨の年代に疑問が生じたことから聖嶽人の項目についても削除の措置がとられた。初版初刷2000.6.10、増補初刷2001.3.30である。


2001.04.27 管理人