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みやぎ遺跡発掘1999

 県内の発掘現場では今日も地道な調査が続けられ、多くの調査成果を生んでいる。昨年も県内各地の遺跡で意外な出土品、新たな発見が相次いだ。掘るごとに歴史の新しい1ページが顔をのぞかせる驚きと感動。昨年1211日には恒例の宮城県遺跡調査成果発表会が古川市において開催され、県内の文化財関係者や一般市民など約200人が出席した。ともすれば一部の関係者に独占されがちな情報を一般に公開していく貴重な場の一つだ。その取り組みは高く評価されよう。発表会で取り上げられた調査成果を中心に、県内の考古学事情を振り返る。

縄紋時代

◆県内最大級の竪穴住居跡
栗原郡築館町嘉倉(かくら)貝塚・宮城県教育委員会・990412-1210
 縄紋時代前期後半の大規模な集落跡を確認。竪穴住居跡は3〜4mのものを中心に3m以下の小さなものから長軸が18mに及ぶ県内最大のものもあった。また、県内初の発掘例となるイチジク形土製品のほか、土偶やけつ状耳飾り、石剣なども数多く出土した。
 長さ約18mの竪穴住居跡


弥生時代

◆集落内に二つのムラが存在
栗原郡一迫町山王囲遺跡・一迫町教育委員会・第5次調査990817-1012
 東北地方では初めて確認されていた弥生時代前期の集落を区画する断面V字の溝に、河道から水を取り入れる取水口跡などが見つかった。山王囲遺跡は、縄紋時代晩期から8世紀ころまでの集落が断続して発見されている。今回の調査では、確認された総延長150mに及ぶV字溝のほか、旧河道によって東西に分断された縄紋時代晩期の二つの集落の存在、泥炭層に保護されて原形をとどめる自然樹木などの有機質資料の出土などが確認された。
 

 現地説明会と泥炭層の調査風景。出土した石器。


古墳時代

◆棺の下に排水施設を確認
加美郡宮崎町大塚森古墳・東北学院大学文学部史学科考古学ゼミナール・第9次調査990715-0822
 墳丘の積み土の状況と粘土槨の下部構造の確認を目的とした調査で、墳丘の土を積む際にブロックを使用していたことや、槨の下に排水施設をつくっていたことが判明。大塚森古墳では、これまでにも墓道などといったほかに例のない遺構が確認されている。東北学院大学考古学ゼミナールの調査は第9次をもって終了した。

◆明らかになる古墳時代前期の生活空間
仙台市宮城野区沼向遺跡・仙台市教育委員会・第9次調査990412-1013
 古墳時代前期の集落跡の居住域、墓域、生産域の位置関係が明確になり、当時この集落が七北田川水系河口の大集落であった可能性が高まった。また、十和田a火山灰降下以前の平安時代の住居跡を確認した。

◆北海道・東海・関東との交流拠点
石巻市蛇田新金沼遺跡・石巻市教育委員会・990517-0002
 注ぎ口が二つある古墳時代前期(4世紀)の注口土器が出土。同様の土器は北海道・東北では初めての発見。このほか、縄紋時代の特徴を残し、主に北海道でつくられていた続縄文土器、東海・関東地方のS字状口縁土器の破片も出土した。遺跡は当時の大和朝廷の東端にあたる北上川河口近くに位置しており、北の特産品を求める各地方の人が船で往来する交流拠点となっていた証拠として注目される。


奈良・平安時代

◆伊治公呰麻呂の乱で焼失の建物跡
多賀城市浮島多賀城跡城前地区・宮城県多賀城跡調査研究所・第70次調査9905-1123
 城前地区官衙の調査で、宝亀11(780年)に伊治公呰麻呂の乱で焼失したとみられる建物跡と焼け面を確認した。これまでの調査で、この乱の大規模な兵火によって政庁跡の主要建物と外郭南門などが焼失したことが知られているが、政庁以外の実務官衙も同時に焼失していたことが明らかになった。また、城前地区官衙は造営に先立って大規模な造成工事が行われていることが分かり、奈良時代の遺構は鎮守府に関わる官衙の可能性が出てきた。
 城前地区官衙の調査区全景

◆古代都市多賀城の交差点と橋脚を発見
多賀城市市川市川橋遺跡・多賀城市埋蔵文化財調査センター・第26次調査990412-1222
 陸奥国府多賀城の正面に広がる古代都市の二大幹線道路である「南北大路」と「東西大路」の交差点を確認した。また、南北大路を横断する河川に架けられた橋の橋脚部分が発見され、全長約15m以上、幅約6.5mの大規模な橋が建設されていたことが明らかになった。これまで多賀城市埋文センターと宮城県教委が進めてきた多賀城城外の調査では、南北大路、東西大路を基準とした方格地割が確認され、高級官僚の邸宅や下級役人の住まいが発見されている。また、水辺で執り行われた祭祀の場や万灯会などの仏教儀式が行われていたことが確認されるなど、古代地方都市多賀城の実像が次第に明らかになりつつある。このような中で、多賀城の正面にあるメーンストリートの様相が明らかになったことは、きわめて重要な意味を持つと言えよう。

南北大路と河川跡に残る橋脚。正面奥が多賀城政庁跡

◆「海道の蝦夷」が焼き討ちの建物跡
桃生郡河北町,桃生町桃生城(モノウジョウ)跡・宮城県多賀城跡調査研究所・第8次調査990802-1018
 8世紀半ばの役所跡「桃生城跡」で、「海道の蝦夷(エミシ)」と呼ばれた現地の人々によって焼き討ちされたとみられる建物跡を発掘した。 奈良時代の歴史書、「続日本紀」によると、桃生城は律令国家に蝦夷が反旗を翻した最初の場所とされていた。「宝亀五年(759)、海道の蝦夷、桃生城を侵し、その西郭を破る」という続日本紀の記述を裏付ける考古学的な証拠が見つかったのはこれが初めてで、歴史書の記述を裏付ける貴重な資料になりそうだ。
 

 現地説明会風景と出土した建物跡。柱穴には焼土を含む

◆郡山廃寺の南門跡を確認
仙台市太白区郡山遺跡・仙台市教育委員会・第128次調査990823-1130
 陸奥国府多賀城に先行する古代の役所跡として知られる郡山遺跡の付属寺院である郡山廃寺の南門跡を発見。柱の配置から八脚門と考えられる。廃寺の周囲を材木塀が巡っていることも明らかになった。これにより、郡山廃寺は、東西120m、南北160mほどの広さがあり、多賀城の付属寺院である多賀城廃寺より規模が大きかったことが分かった。

◆瓦塔の破片が出土
加美郡宮崎町壇の越(ダンノコシ)遺跡・宮崎町教育委員会・990412-1203
 仏教信仰に使ったとみられる瓦塔(がとう)の破片が出土した。壇の越遺跡は、古代陸奥国府・多賀城の下で郡を治めた役所跡である東山官衛(かんが)遺跡の南約700mにあり、郡司らの邸宅跡だった可能性が高い。郡司クラスにも仏教が浸透していたことを知る貴重な資料だ。瓦塔は五重塔のミニチュアで、位の高い役人が仏堂を建てる代わりに宅地内に設置したと考えられ、県内での出土は多賀城廃寺跡(多賀城市)と陸奥国分寺(仙台市)についで3例目。国司以外の郡司クラスでは珍しく、国内最北の出土例ではないかという。
 出土した瓦塔の屋根の部分の破片。

◆珍しい半地下式登り窯
加美郡色麻町土器坂(カラケザカ)窯跡・古窯跡研究会・第3次調査990731-0807
 平成9年度から調査している瓦窯跡が7世紀末から8世紀初頭のものではきわめて珍しい、半地下式(はんじげしき)の構造であることが分かった。半地下式の構造は8世紀後半から10世紀頃までの窯跡でみられるが、7世紀末から8世紀初頭にかけての東北の窯跡で発見された例はほとんどない。窯跡から出土している「雷文縁複弁四弁蓮華文軒丸瓦(ライモンエンフクベンシベンレンゲモンノキマルガワラ)」の文様や技術から、瓦窯跡は7世紀末から8世紀初頭のもので、東北最古級と考えられている。
 半地下式と分かった東北最古級の瓦窯跡

◆外郭は格式高い八脚門
遠田郡田尻町新田柵(ニッタノサク)推定地・田尻町教育委員会・990524-0906
 奈良時代の新田柵の所在地と推定されている田尻町大嶺・八幡地区で城柵の外郭西門跡が見つかった。門跡は南北6m、東西4.2m。掘立柱式で南北に中央で棟を支える本柱4本のほか、その前後に屋根を支える控え柱4本ずつ計八本があり、「八脚門(ハッキャクモン)」だったとみられる。陸奥国府・多賀城跡(多賀城市)などで発見されたものと同じ構造で格式の高い門という。近くからは、8世紀後半に書かれた戸籍のような帳簿の断片の漆紙文書も発見され、役所的な役割も担った城柵だったことが確認された。
 新田柵は、史書「続日本紀」に記載がある陸奥国の行政・軍事施設の一つ。田尻町大嶺・八幡地区の南北1.7km、東西1.5kmの範囲に及ぶと考えられる城柵跡が、新田柵跡ではないかと推定されている。
 見つかった八脚門の遺構

◆幻の武具「弩」の引き金部分が出土
栗原郡築館町伊治城(イジジョウ)跡・宮城県教育委員会・第26次調査991108-1124
 古代律令政府(大和朝廷)が8世紀後半、陸奥国経営の拠点として置いた宮城県栗原郡築館町城生野の「伊治城(いじじょう)」跡から、「弩()」と呼ばれる弓の一部が見つかった。弩は古代中国で使われた機械仕掛けの弓。国内では島根県教委が5月、弩の形をした木製品を発見したと発表したが、今回は青銅製。中国でもほぼ同時期にあたる隋、唐時代の弩の実物は発見されていない。東洋史上、貴重な発見だ。弩は、中国戦国時代(紀元前五世紀)以降、辺境を防備する武具として使用され、国内でも「日本書紀」などの文献に登場する。銃身に付けた弓から引き金を引いて矢を飛ばす武器で、「ボーガン」と同じ仕組み。しかし、国内では普及しなかったとの説もあった。
 弩が発見された住居跡
 出土した弩の各部名称

弩について(参考資料)

◆中心部分の建物配置が明らかに
桃生郡矢本町赤井遺跡(牡鹿郡家推定地)・矢本町教育委員会・第26・27次調査990516−991220
 材木を立て並べた塀によって区画された中枢施設とみられる「院」は、南北63mの規模であることが判明。また、院内の建物と柱筋を揃えた大型建物が院外から発見されたことから、院内外で企画的な建物配置がとられている可能性が高まった。院の内容もほぼ明らかとなり、南門と材木塀で囲まれた中に建物や目隠し塀、住居などが整然と配置されていた。さらにこれらの施設はいずれも火災で焼失していることが分かった。この時期には地面を粘土で整地するものや床束をもつ建物などがあり、最も充実した時期と考えられる。今回の調査区周辺は、建物の規模や企画的な配置の状況から赤井遺跡の中で最も充実した地区であり、中心的な機能を持った地区であった可能性が高まった。

◆政庁跡で倉庫群を確認
古川市名生館官衙(ミョウダテカンガ)遺跡・古川市教育委員会・第21次調査990802-1013
 名生館官衙W期(8世紀後半以降)の政庁跡北側から東西10.5m、南北6.3mの建物跡が見つかった。柱が建物の内部にも立つ総柱式になっていることから倉庫跡とみられ、平安時代のものと推定される。調査区西側の拡張区で、この建物跡と柱筋をそろえた柱穴が見つかったことから、倉庫が複数並んでいたと考えられる。古代中央政権の役所だった官衙には、周辺の農民から徴収した穀物を保管する倉庫の存在が不可欠で、官衙全体の構造を知る上で貴重な手がかりになるという。
 出土した倉庫跡と柱穴列(右端)


鎌倉・室町時代

◆中・近世の鋳物生産工房
仙台市若林区保春院前(ホシュンインマエ)遺跡・仙台市教育委員会・990412-0812
 戦国時代から江戸時代にかけての鋳造関連の遺物が大量に出土し、当時一帯に大規模な鋳物生産工房があったという史実を裏付けた。保春院前遺跡の調査は、仙台城下町域の居住区としては初めての調査であり、近世の地下室等遺構の発見以外にも、溝跡、水路跡や廃棄土坑群から多量の陶磁器、土師質土器、瓦質土器といった遺物が得られ、近世城下町住民の生活の様子を明らかにする上で、貴重な資料として注目される。
 出土した鋳型の破片。鉄鍋の生産に使われたとみられる。

◆在地領主の屋敷跡発見
名取市田高原遺跡・名取市教育委員会・990510-1218
 鎌倉時代後半の屋敷跡が出土。発掘されたのは広さ3000u余りで、屋敷全体の60%程度とみられる。全体像の分かる中世の屋敷跡の発掘例は県内では少なく、貴重な例だ。この地域は中世には早くから開発され、鎌倉幕府開府以後の名取郡は複雑な支配関係にあったという。今回見つかった屋敷跡は近隣地域の調査例からみて、特別な特徴はみられないことから、在地の村落領主層のものと考えられるという。この時期の屋敷のあり方や建物配置の様子などをはじめ、居住者やこの周辺一帯の支配層などの究明に貴重な手がかりになるとみられる。また、県内における方形居館を含む中世以降の村落遺跡研究のための貴重な資料となった。


江戸時代

◆第三の石垣も確認 石垣の変遷明らかに
仙台市青葉区仙台城本丸跡・仙台市教育委員会・仙台上本丸石垣解体修復工事に伴う事前調査
 本丸北東部の石垣の発掘調査で、16201650年ごろに築かれた、仙台藩祖・伊達政宗から二代忠宗の時代のものとみられる石垣が見つかった。17世紀後半以降に築かれた現在解体中の石垣と政宗築城期の間の2代目の石垣となる。仙台城は何度も地震に見舞われたという記録が残っているが、3度にわたる城壁修復の繰り返しという形で裏付けられた。度重なる災害と修復で、仙台城の石垣がどんどん変わっていく姿が見て取れる。
 こうしたことから、仙台城の本丸北東部は築城期のT期から修築後のU期、そして現存するV期石垣へと、仙台城の石垣変遷を明瞭に知り得る場所である。地震による大規模崩落後の修復工事を繰り返す中で、仙台藩の築城技術の進化を凝縮した部分であるのみならず、近世の石垣構築技術の変容を眼前に示している。日本の土木技術史上から見てもきわめて重要な石垣であり、その発見の学術・文化上の意義はきわめて大きいと言えよう。
 現在の石垣(左)と見つかった2代目の石垣(右)

◆江戸中期の石積み護岸跡
塩釜市西町地区・塩釜市教育委員会・9904
 江戸時代中期に塩釜市内の入り江に造られたとみられる石積みの護岸跡が見つかった。藩政時代から塩釜神社の門前町として栄えた塩釜で、護岸跡は当時の町並みづくりを知る貴重な手掛りとなる。護岸は千賀の浦の入り江数百メートルにわたり、元禄年間(16881704年)に築かれたとみられる。入り江の両側に石が高さ11.5mに積み重ねられ、以後、入り江は「祓(はらい)川」と呼ばれたという。護岸工事の後に、塩釜神社への参拝道として祓川に架けたと伝えられている「御台(おだい)橋」の位置も、石積みの形態と合わせてほぼ確認され、橋は幅約3m、長さ約10m前後だったと推定された。



◆参考・引用文献
宮城県考古学会・古川市教育委員会ほか1999「平成11年度宮城県遺跡調査成果発表会発表要旨」、東北日本の旧石器文化を語る会1999「第13回東北日本の旧石器文化を語る会予稿集」、その他、個々の文献に関しては割愛させていただく。


トピックス

◆高まり見せる市民の文化財保護意識
古代都市多賀城、仙台城跡から都市景観まで
 文化財保護を訴える市民の動きが活発化している。
 多賀城市内の遺跡の保存と活用方法を市民レベルで考えようと設立された「多賀城史跡・名所をいかす会(本郷俊夫会長)」は2月3日、陸奥国府多賀城の正面に広がる市川橋遺跡で見つかった古代のメーンストリート「南北大路」と「東西大路」の交差点部分の保存・活用を求める要望書を鈴木和夫多賀城市長に提出。碁盤の目のように区画された「方格地割」による街並みの様子が発掘調査によって明らかになったのは古代地方都市の中では多賀城だけであることを指摘し、交差点部分の保存と史跡公園整備などを求めた。
 また、仙台市が仙台城本丸跡で進める予定の艮櫓(うしとらやぐら)建設計画では、築城期の石垣が破壊される事実が指摘されたため、「仙台郷土研究会(渡辺信夫会長)」など在仙の史学研究六団体が石垣の保存を市に要望。仙台城跡の石垣の歴史的価値を知ってもらおうと、1月30日に仙台郷土研究会が開催したシンポジウム「仙台城石垣の保存について」には会場を埋め尽くす300人余りの市民が駆けつけ、文化財に対する関心の高さを窺わせた。
 失われた文化財の復元を目指す動きもある。藩政時代以降、仙台の城下町を縦横に流れ、庶民の生活用水として重要な役割を果たした「四ツ谷用水」を現代によみがえらせようと、「仙台・水の文化史研究会(佐藤昭典会長)」のメンバーを中心に商店主、教師、主婦らによって2月6日、「四ツ谷用水復活市民の会」が結成された。会では水辺がもたらすリラクゼーション(くつろぎ)効果や災害時の用水確保も期待しており、水文化の再生・創造を目指して、市民の幅広い参加を呼びかけている。文化財保護と自然環境保全は一体となって進められるべきものである。
 仙台を代表する青葉通の街並について考えようと2月4日、仙台市は「街並み景観向上調査団」と名付けたワークショップを開催。市民に実際に青葉通を歩いてもらった上で、問題点や杜の都にふさわしい景観の在り方について意見を出し合い、将来の街並み作りに反映させるという。
 文化財保護も自然環境保全も、街づくりの一環と言っていいだろう。行政の側からも市民の側からも、主役は私たち市民であるという認識が徐々に高まりつつあるようである。
(鈴木雅)




【参考資料】
(ど)





伊克昭盟東勝漫頼出土 青銅弩機 (漢、長14.5cm、高18.3cm)


(復元図)


 弩は機械力を利用して矢を射る古代の弓である。弩機は弩の木臂(もくひ、矢を引く部分)の後部に装置する機具である。部品は「廓体」、弓の弦(つる)をかける「牙」、廓上の照準器「望山」、廓の下の引き金「懸刀」から成る。懸刀を引くと、牙が下に引っ込み、かけていた弦が勢いよくはずれて矢が発射される。弩は力がいらず、射程距離が長く、命中率が高い。弩は戦国時代に初めて現われ、漢、晋に盛行した。

『中国内蒙古 北方騎馬民族文物展 図録』
(1983年、文浩 于堅 監修、日本経済新聞社刊)より

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