宮城考古学情報みやぎ遺跡発掘2001>桃生城跡

河北町・桃生町桃生城跡第10次発掘調査
現地説明会:2001.09.15  調査主体:宮城県多賀城跡調査研究所
 
現地説明会風景
宮城県多賀城跡調査研究所の白鳥良一所長のあいさつ。地元住民や県内の一般市民120名が参加した。
現地説明会風景
1号住居跡は発見された遺構の中でもっとも残存状況が良好だったという。
 
1号住居跡(北東から)
平面形は4.5m四方の正方形で、10畳ほどの広さがある。柱を据えた穴が4か所あり、壁際には板材を立て並べたとみられる溝がめぐっている。西壁に取り付くカマドからは住居の外側に向かって1mほどの煙道(トンネル)が延びており(写真右上中央の作業員の足元に出口が見える)、燃焼部に横倒しになった土師器がある。床面中央部には炭化材が散らばっている状況がみられるが、生活用具が残されていないことから住居を離れる際に火を放って焼却したものとみられている。
 
2号住居跡(東から)
平面形は南北4.3m、東西3.8m以上の方形で、西壁にカマドが取り付き、周囲には板材を立て並べたとみられる溝がめぐる。
2号住居跡カマド付近(南から)
上部が削平されており、住居の外側に1mほどの煙道が延びている状況が分かる。燃焼部の内部には石製の支柱と土師器の甕があり、袖部の東側には土師器壺がある。
 
3号住居跡(南東から)
平面形は東西3.7m、南北2.8mの方形で、北壁のカマドの燃焼部には石製の支柱があった。カマド内部から土師器甕1点と床面から土師器杯3点が出土。
4号住居跡(東から)
平面形は3.6m四方の方形。西壁のカマドの燃焼部には石製の支柱があった。カマド内部から土師器甕2点と袖部の東脇から土師器甕1点が出土。
 
第10次調査区全景(北東から)
調査区は政庁西辺から約350m西側で、南北100m、東西50mほどの平坦地を持つ丘陵の、北へ緩やかに傾斜する約800平方mの範囲。
現場の知恵。
 
桃生城跡全体図(クリックで拡大画像を表示)
桃生城全体の規模は、東西800m、南北650mと推定され、外郭線は尾根の先端部をつなぐように築地塀や材木塀などの区画施設が築かれている。政庁の規模は東西72m、南北66mと推定され、築地塀で区画されている(宮城県多賀城跡調査研究所2001に加筆)。
 
まとめ
  • 竪穴住居跡5棟と方形の土壙1基を発見。住居内から出土した土師器から、桃生城造営前の飛鳥時代末ころから奈良時代前半ころのものと考えられる。
  • これらの住居跡が使われなくなった後、桃生城西側の丘陵平坦地には建物などが造られていないことから、桃生城が機能していた奈良時代後半には、鎮兵や兵士が一時的に駐留する場所として使われたか、眺望を確保するためにあえて建物が造られなかったとみられる。
  • これまでの調査の結果、宝亀5(774)年に起こった海道の蝦夷の攻撃は、政庁および西側官衙の主要建物、城内区画築地塀に取り付く櫓など城内の主要な施設を焼失させ、桃生城が壊滅的な打撃を受けた様子が明らかになった。
  • また続日本紀の海道の蝦夷の攻撃についての記録にみえる「(海道の蝦夷が)西郭を敗る」の位置について、これまで城内築地塀の西側をさすと想定されてきたが、西側の主要な平坦部には桃生城が機能していた時期の建物が造られていないことが判明した。このため西郭の位置が政庁西側の官衙域であった可能性が出てきた。
参考文献
宮城県多賀城跡調査研究所2001「桃生城跡-第10次調査現地説明会資料-」