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古川市名生館官衙遺跡第23次発掘調査
現地説明会:2001.08.25  調査主体:古川市教育委員会
 
名生館官衙(みょうだてかんが)遺跡は大崎地方西部を治めた古代の役所跡と考えられている。発掘調査は昭和55年度から継続されており、これまでの調査で瓦葺の建物跡や門跡などが発掘され、4時期にわたる政庁の変遷が確かめられている。中世には奥州探題大崎氏の名生城が築かれ、現在も土塁や堀跡の形状が水田や畑の区画として遺存している。

調査区全景(北から)。城内地区南東部における官衙期の遺構の広がりと性格を把握することを目的に実施された発掘調査で、古墳1基、掘立柱建物跡6棟、縦穴建物跡22軒、溝跡3条、土壙5基などの遺構が検出された。

古墳は6世紀後半頃の築造と考えられ、東西14.7mの円形。墳丘は削平により失われ、周溝と主体部が残存していた。

墳丘部のほぼ中央の主体部(埋葬施設)は縦穴式で平面形は長さ3.8mの長方形。木棺は残存しないが、痕跡が確認され割竹形木棺と推定される。鉄製品や漆膜片が出土している。

溝跡(手前)に取り付くように建てられた櫓状の掘立柱建物跡(建物1・2)。過去の調査で西に約73mの地点でも同様の溝跡に取り付く掘立柱建物跡が発見されている。

古墳主体部の説明風景。被葬者はこの地域の豪族層と推測される。この時期の古墳は小規模なものが群集することが多く、周囲にも同様の古墳がつくられた可能性が高い。

調査区内では古墳時代の縦穴建物跡(住居11)を壊して古墳が築造され、さらにそれを壊して溝跡(溝跡14)と櫓状の建物(建物1・2)が建てられている状況が確認された。古墳時代の縦穴建物跡(住居11)内では土師器や黒曜石が多量に出土した。

古墳時代の縦穴建物跡(住居11)から出土した宮崎町湯ノ倉産の黒曜石(表裏)。数センチの円礫状の原石を持ち込んで石器製作を行なっていたと考えられる。最近の調査で宮崎町壇の越遺跡でも古墳時代の縦穴建物跡内から多量の黒曜石が出土しており、古川周辺での古墳時代の湯ノ倉産黒曜石の流通と利用を考える上で興味深い。

出土した土師器と須恵器。


第23次調査区全体図(古川市教育委員会2001より引用)。
  
まとめ
  • 古墳1基、掘立柱建物跡6棟、縦穴建物跡22軒、溝跡3条、土壙5基などの遺構が検出された。
  • 古墳は周溝と主体部が検出され、割竹形木棺を直葬したとみられる。築造年代は遺物や遺構の切り合い関係などから6世紀後半頃と推定される。
  • 溝跡に取り付く建物跡は西に73mの地点で検出されているものと類似することから、櫓状の建物跡と推定される。建物跡には3時期の変遷がみられ、出土遺物から8世紀後半から9世紀前半の名生館官衙第IV期に属するとみられる。溝跡は第IV期政庁の重要な区画施設であった可能性が高い。
参考文献
古川市教育委員会2001「名館官衙遺跡‐第23次調査現地説明会資料‐」