MIYAGI ARCHAEOLOGY INFORMATION Vol.27 2002.7.20



宮崎町 壇の越(だんのこし)遺跡(現地説明会:2001.08.11・12.01)

 壇の越遺跡は大崎平野の西端に位置し、8世紀前半〜10世紀中頃の加美郡衙(かみぐんが:加美郡の役所)と考えられる東山官衙遺跡の南前面に展開する広大な遺跡で、加美郡衙の造営・維持に伴って発達した町並みと考えられる。
 県営圃場整備事業などに伴う調査が宮崎町教育委員会によって進められており、今年度の調査では9世紀代の築地塀と材木塀からなる大規模な区画施設が上位段丘の縁に沿って長さ450m以上連続し、これに取り付く門跡と櫓跡が発見された。また、東西・南北方向の道路が土地をおよそ1町(約110m)毎に区割りしていることが明らかになった。区画施設に取り付く門跡は格式の高い八脚門と呼ばれるもので、東西方向の道路の延長線上に位置している。
 また、これらの道路跡の交差点に面して、材木塀で一辺約62〜66mの方形に区画された屋敷跡が見つかった。屋敷内は建物跡14棟で構成されており、中央に建物群、北側に高床倉庫群、南側に外周溝を伴う壁立ち式の平地建物群が配置されていた。屋敷跡は出土遺物から8世紀中葉に作られたと推定され、加美郡衙の創建後まもなく南前面の平野部が道路によって区割りされ、屋敷が建てられたことが分かった。屋敷地の規模やその内部の様子などから、律令国家に関係する役人の屋敷跡であったとみられる。
 古代の役所の周辺は一般の集落と異なり、役所と密接な関わりを持つ屋敷や道路などの施設が作られ、町並みを形成していたと推定される。近年の調査では多賀城市の山王・市川橋遺跡などが陸奥国府・多賀城の南前面に広がる町並みとしてこうした事実を裏付けているが、東山官衙遺跡の南前面に広がる壇の越遺跡は、郡衙クラスの役所にもこうした計画的な町並みが形成されていたことを裏付ける貴重な例である。