MIYAGI ARCHAEOLOGY INFORMATION Vol.27 2002.7.20



利府町 大貝(おおがい)窯跡(現地説明会:2001.06.17・10.06)

 多賀城跡の北東約7kmに位置する利府町北東部の丘陵地帯には、多賀城第III・IV期の瓦を供給した春日大沢・硯沢窯跡などの古代の窯跡群があり、春日窯跡群として知られている。付近には現在でも「瓦焼場」、「瓦畠」といった地名が残り、中世には松島の円福寺(瑞巌寺)の瓦を生産していた可能性も指摘されている。大貝窯跡では利府町教育委員会の分布調査によって奈良・平安時代の須恵器・瓦窯跡と時期不明の製鉄関連遺構の存在が確認されていた。今回に先立つ第1次発掘調査では9世紀前半から10世紀初頭の須恵器・瓦窯跡、炭窯跡などを確認している。
 第2次発掘調査では、山の斜面を切り崩して造成した平場で製鉄関連遺構が発見され、宮城県内で初めて箱型炉を確認した。作業場では製鉄炉跡、溝跡、炭置場とみられる遺構、床面が強く熱を受けているピット状の小鍛冶跡、柱穴などが見つかった。西側の低い部分は廃滓場として利用され、40トンの鉄滓が出土した。これらの製鉄関連遺構は、旧表土中に灰白色火山灰がまだらに混在していたことや、出土した古銭の年代などから、少なくとも14世紀以降に操業されていたと考えられる。
 大貝窯跡は、古代陸奥国府の多賀城に関連する生産遺跡と考えられてきたが、1次調査で板碑を転用した13世紀以降の炭窯跡を確認したことに次いで、2次調査で14世紀以降の製鉄炉を確認したことから、多賀城期以降も生産活動が行われていたことが分かった。諸資料から、大貝窯跡の製鉄遺構は相馬氏支配下、伊達氏支配下のいずれかの時期に操業していたことが予想されている。
 第3次調査では、古代の須恵器・瓦窯跡13基が確認された。出土した軒丸瓦や隣接する竪穴建物跡で出土した土師器・須恵器などから、8〜9世紀の多賀城第III期に属すると考えられる。これらの窯跡群に隣接して竪穴建物跡6軒が確認され、須恵器・瓦製作に従事した工人の作業場と考えられる。鉄滓や砥石、焼面を伴う竪穴建物跡のほか、炭窯跡1基も確認され、製鉄作業との関連も考えられる。このほか、中世の製鉄に伴うと考えられる炭窯跡6基が確認された。大貝窯跡は多賀城政庁に供給する須恵器・瓦の一大生産地であり、中世以降まで大規模な生産が行なわれたことが明らかとなった。