<資料> 東北旧石器文化研究所2001「上高森遺跡」 『第14回東北日本の旧石器文化を語る会‐前・中期旧石器の検討‐発表・討論記録』 東北旧石器文化研究所・東北福祉大学考古学研究会2000「上高森遺跡」 『第14回東北日本の旧石器文化を語る会‐前・中期旧石器の検討‐資料集』 上高森遺跡 上高森遺跡の位置と立地 上高森遺跡は、栗原郡築館町上高森61の57に所在しており、高森遺跡の西方約500mに位置し、高森遺跡D地点に隣接している。上高森遺跡の周辺では、羽山系栗駒山から派生したなだらかで低平な築館丘陵と迫川及び支流の一迫川、二迫川などによって形成された沖積地からなっている。丘陵は多くの小河川や沢などによって開析され、全体的に浸食の度合いも著しく、それぞれの丘陵は痩せ尾根状で谷との比高差も大きい。しかしながら、周辺の基盤は水成堆積物によって構成されており、上高森遺跡・高森遺跡の周辺はきわめて等レベルで、下山里テフラより下位のテフラも平坦に累積している。つまり、現在の地形を形作る起伏の多くは下山里テフラ以降に浸食されて形成されたと考えられる。また、テフラの多くは流出して模式柱状図(資料集p139)のように全てのテフラを観察できる場所はない(早田1994)。ここでも下山里テフラより上位のテフラを欠いている。これらのテフラ層序編年と理科学的な年代測定については、座散乱木遺跡の調査(石器文化談話会1983)以降、ここ十数年間数多くの蓄積があり、その精度も徐々に高まっている(宮城県教育委員会1994など)。 上高森遺跡A地点は、北西方向にのびる約90mの緩やかな丘陵頂部に立地し、北方向から入る谷頭付近に位置している。ここでは、掘削された露頭にTm-18(高森第18テフラ)より下位のテフラが見られる。B地点は、A地点の約100m南西方向に位置している。ここでは土取りによって大きく削平され、一部に倉ノ沢第4〜1テフラ(Ks-4〜1)、高森テフラ群の中のTm-1,2,3など当該地のテフラの最下部が露出している。 調査に至る経過 1992年の8月、東北旧石器文化研究所の藤村新一と鎌田俊昭は牧草地にするために掘削された築館町上高森の露頭断面で両面加工のヘラ形石器などの石器を発見した。その後数回の踏査でヘラ形石器、クリーヴァーなどが十数点まとまって発見された。これらの石器群が、それまで最古とされた馬場檀A遺跡、中峯C遺跡、高森遺跡から発見された石器群と異なるために、東北旧石器文化研究所と東北福祉大学考古学研究会が主体となり、上高森遺跡調査団を組織し、1993年11月から調査を実施した。 調査の経過 第1次発掘調査(1993年11月19日〜11月23日) 調査面積:約30平方メートル 出土石器:22点 A10区では約40万年前と考えられるTm-14(高森第14テフラ)直下から11点、また、A14区の同層直下から11点の石器が発見された。双方の石器群は、両面加工ヘラ形石器、クリーヴァー類似の石器などで、それまでの日本旧石器時代前期の主流は玉髄・碧玉系小型石器群と位置付けていた仮説を変更せざるをえなくなった。 第2次発掘調査(1994年10月30日〜11月5日) 調査面積:約280平方メートル 出土石器:66点 第2次調査では、1993年の調査地点をA地点とし、そこから約100m西方にB地点を設定して発掘調査を実施した。 A地点では、A15区のTm-14直上から約1.5m四方の範囲で13点の石器が出土したが、そのうち13点が両面加工石器の片刃のヘラ形石器で、他の1点は片面加工の片刃石器である。A9区のTm‐14直下から約1uの範囲で12点の石器が出土したが、両面加工石器は少なく、大半はスクレイパーと剥片である。すべて黒色頁岩で接合資料・同一母岩資料の存在が期待されたが、今のところ見あたらない。 B地点では、C5区で約50万年前のTm-1の10cm程下から7点の石器が出土した。また、A4・5区、B5区ではTm-1の5cm下層のKs-1直下からハンドアックス、三稜尖頭器など5点がまばらに出土している。そして、A4区北東隅でKs-1直下から直径約20cm、深さ5cm以上のくぼみに6点の石器が埋納された遺構が発見された。遺構内からはハンドアックス2点、クリ−ヴァー2点、小型の石器2点が出土した。さらに、A4区、B5・6区ではKs-1より十数p下層の水成堆積物直上からハンドアックス、クリーヴァー、スクレイパーなど22点の石器が出土している。 第3次発掘調査(1995年10月28日〜11月5日) 調査面積:約110平方メートル 出土石器:29点 第3次調査では、第2次調査で発見された石器埋納遺構1と同じB地点での調査が実施された。その結果、A3区でKs−1の直下から2ヶ所の石器一括埋納遺構が発見された。その中でも、A3区北西のKs‐1直下から発見された石器埋納遺構2では径45cm×25p・深さ7cmの楕円形の穴に15点の石器が整然と敷き並べてあった。赤色碧玉製の先の尖った石器を下端に、半透明の玉髄製や青色の碧玉製の不定形石器4点がT字形に並び、それらを囲むように、頁岩・流紋岩製の同種類の両面加工石器10点が馬蹄形状に敷き詰められていた。また、石器埋納遺構2に接する石器埋納遺構3は、径20cm×20cm、深さ3cmほどの円形の浅い穴で、3点の両面加工石器などが発見された。 他に、多くの両面加工石器とクリーヴァー、尖頭器などの石器が発見され、当該期の石器群に多種多様な種類があることが判明し、石器製作技術やその系譜に迫りうる可能性が期待された。また、石器の石材も多種多様で、例えば脊梁山脈を挟んだ山形産頁岩もいくつかある。 第4次発掘調査(1998年10月30日〜11月8日) 調査面積:約140平方メートル 出土石器:30点 前回に引き続いてB地点を拡張し、更に東に深堀区を設けた。この結果、新たに本遺跡最下層であった18層の下に位置するオレンジ色の19層の上面から、14点の石器が発見された。この石器群に属する玉髄製の石核に剥片6点が接合し、旧石器時代前・中期では宮城県で初めて遺跡内での石器製作を確認することができた。 他に小型の尖頭器2点、くさび形石器1点、錐1点、剥片3点が発見されている。また、A2区で1994,95年度と同様、Ks‐1(倉の沢第1テフラ)の下層(16層)で、直径20cmの円形の穴に箆状石器5点が並べられた石器埋納遺構が発見された。他に同じ層の石器埋納遺構の近くから箆状石器4点、クリーバー状石器1点、剥片2点がまとまって発見された。さらに、Tm‐1(高森第1テフラ)下の9層上面から鋸歯縁石器、楔形石器、剥片各1点、12層上面から剥片1点が発見されている。深堀区では4m以上掘り下げたものの、この時点では泥炭層は見つかっていない。 第5次発掘調査(1999年10月19日〜11月3日) 調査面積:約80平方メートル 出土石器:46点 B地点のD,E,F‐9区において、19層上面より約1.5m下位の37層から、径1.0〜1.5mの石器集中地点が3ヶ所発見された。劈開性の強い玉髄や碧玉でできた小型両面加工尖頭器、楔形石器、スクレイパー、石核など22点が出土した。 そしてE‐10区の一部試掘の結果、37層より更に1.8m、19層上面から3m以上下位の59層から石英製のチョッパー1点、碧玉製の鋸歯縁石器1点、碧玉製の石核1点、玉髄製の剥片1点が発見された。更にD‐11区を北に約50cm拡張したところで、59層から50cm下位の61層から断面三角形のピック1点が出土した。 また、B地点C‐6区で昨年の19層上面検出の石器集中地点内から新たに碧玉製の2点の尖頭器が出土した。また、隣接するD‐6区で径2mの範囲から頁岩製の小型両面加工尖頭器、碧玉製の楔形石器など11点が発見された。B地点A‐1区の16層上面から、昨年までに発見された4例と同様、新たに径15cm深さ5cmの穴に石器3点を平行二配列して埋めた石器埋納遺構が1ヶ所発見された。これで本遺跡の埋納遺構は5ヶ所目となった。 第6次調査(2000年10月20日〜10月31日) 調査面積:約110平方メートル 出土石器:69点(うち2000年11月時点での捏造判明分65点) ・16層上面 発掘区東西を走る7ラインの南側では、これまでの調査の精査とだめ押しの繰り返しで本来の16層上面より10pほど下位に下がっていた。最近の埼玉県秩父市長尾根遺跡や小鹿坂遺跡の柱穴群・土壙群をも考慮に入れ、石器埋納遺構が発見された16層上面を再精査して同様の遺構の検出につとめた結果、発掘調査対象区内で少なくとも2棟以上の建物遺構、土壙6カ所などが発見された。 建物遺構1は東西120cm、南北110cmの範囲に5個の穴が掘られ、西側が110cmほど開いている。その開口部の右側に1995年発見の石器埋納遺構2が隣接してある。さらに、東西180cm、南北170cmの盛り土状の遺構らしきものも認められる。 建物遺構2は東側が発掘区東壁に入り込んでおり、全体像が不明だが、径15〜30cm、深さ15〜30cmの穴が少なくとも7個あり、それぞれの穴の中心部を測ると東西240cm以上、南北240cmで、西側に開口部を持ちそうである。その中央に土壙4が検出された。 建物遺構3は南側が発掘区南壁に一部入り込んでおり、全体像は不明だが、径25〜30cm、深さ10〜20cmの穴が少なくとも6個あり、中央に東西約80cm、南北60cm、深さ30cm以上の柱穴掘り方のような状況で土壙3が検出された。土壙3は、内側に上位10cmが約30cm四方の正方形を呈した穴があり、さらにその北西隅に径20cm、深さ20cm以上の穴が検出された。 土壙1は、長軸100cm、幅65cm、深さ12cmで、長軸がほぼ北東方向を指している。 土壙2は、長軸100cm、幅65cm、深さ約10cmで、長軸がほぼ東西を指している。 土壙4は、長軸95cm、幅65cm、深さ10cmで、長軸はほぼ東西を指している。 土壙6は、西側が未掘であるが、長軸55cm以上、幅55cm、深さ15cmで、長軸がほぼ東西を指している。 土壙7は、長軸130cm、幅70cm、深さ6cmで、長軸は東西を指している。 土壙8は、長軸75cm、幅60cm、深さ15cmで、長軸はほぼ北東を指している。 ・37層上面 D,E,F‐9区の37層上面を再精査した結果、玉髄製の剥片1点が発見された。 ・61層上面 石材が不明だが、D-10区北西隅からピック、チョッピング・トゥール、石核が1点ずつ発見された。 ・2000年11月時点で捏造が判明している遺構および出土石器 16層上面で検出された石器埋納遺構6には6点の石器、石器埋納遺構7には5点の石器、石器埋納遺構8には7点の石器、石器埋納遺構9には5点の石器、石器埋納遺構10には6点の石器、石器埋納遺構11には8点の石器が「埋納」されていた。 37層上面ではF9区から16点、D9区から6点の石器が「発見」された。 61層上面 D11区から6点の石器、又は偽石器が「発見」された。 引用文献 早田勉 1994 「テフロクロノロジーによる高森遺跡の古さについての基礎研究」 『日本最古・高森遺跡の年代を探る』宮城県教育委員会 石器文化談話会編 1983 『座散乱木遺跡発掘調査報告書V』石器文化談話会誌第3集 宮城県教育委員会 1994 『日本最古・高森遺跡の年代を探る』 |
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石器出土点数一覧表 |
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