宮城県岩出山町座散乱木遺跡発掘調査中間報告
座散乱木遺跡発掘調査委員会
座散乱木遺跡発掘調査団
2002年5月19日

1. 遺跡の位置と概況

 座散乱木(ざざらぎ)遺跡は、宮城県玉造郡岩出山町下野目字座散乱木に所在する。遺跡は江合川左岸に位置し、江合川とその支流に挟まれた南東に緩く傾斜する舌状の台地上に立地する(図1)。標高は65m前後で、江合川との比高は約27mである。石器文化談話会によって1976年(第1次)、1978年(第2次)、1981年(第3次)に発掘調査が実施され、とくに、第3次調査は「日本前期旧石器存否論争」に決着をつける目的で実施された。1997年に国史跡として指定された面積は46,643uで、指定地部分での台地の幅は150mから180m、指定地の長さは北西から南東に約400mに及ぶ。旧調査区(既発掘区)とその隣接部分の現況は、埋め戻し後そのままで、雑草の刈り取り等の管理が行われているが、他は畑として耕作されている所と山林である。国史跡指定されたこともあり、現地の状況は、座散乱木遺跡第3次発掘調査が行われた1981年当時と大きな変化はない。


図1 座散乱木遺跡の位置

2. 発掘調査の目的

 今回の座散乱木遺跡発掘調査の第1の目的は、捏造疑惑の検証にあることはいうまでもない。学史的にも、わが国における前・中期旧石器時代研究のきわめて重要なひとつの出発点であり、座散乱木遺跡出土資料は、その後の前・中期旧石器時代研究にとって、当該期の基準資料としても位置付けられていたものでもあることから、その真偽を確実に科学的に検討する必要があることは贅言を要しない。
 日本考古学協会前・中期旧石器調査研究特別委員会第1作業部会が、2001年9月と2002年1月にすでに実施した13層および15層出土石器(中期旧石器時代あるいは前期旧石器時代後半と認定されていたもの)の検証において、黒色土の付着、新しい傷痕(いわゆるガジリ)、酸化鉄の線状痕、加熱処理の痕跡、押圧剥離の存在等が多数の資料について確認されることから、過去の座散乱木遺跡の当該期の出土資料は、学術資料として使うことには全体的に問題がある、との判断が示されている。さらに、部分的に行われた8〜9層(後期旧石器時代と認定されていたもの)の石器の検証においても、疑惑の付着物の存在が指摘され、捏造疑惑が第1次調査が実施された1976年まで遡る可能性もある。
 旧調査区およびその周囲の発掘では、北海道総進不動坂、山形県袖原3、宮城県上高森、福島県一斗内松葉山、埼玉県小鹿坂、同長尾根北・南等での検証発掘調査の方法に準拠して、@旧調査区最終面に残された過去の発掘調査痕跡の精査を行い、さらに、A既発見の遺物の広がりの延長が確実に検出できるか否かを確認することが必要である。
 同時に、B座散乱木遺跡発掘当初より一部で指摘されていた事柄でもあるが、遺物包含層の地質学的な性質、つまり地形形成史および土壌学的に見て、その包含層が生活址として評価できるのか否かといった、遺跡形成論的な調査が重要な課題となる。また、検証的な意味では、C後期旧石器時代を含む地層の年代や利用石材の理化学的な分析も重要な課題である。さらに、D本遺跡が国指定史跡であることから、学術的にも、行政的にも、旧調査区以外の史跡指定範囲についても学術的な調査のメスを入れ、この遺跡の真の内容や性格をつかむことが求められる。

3. 発掘調査の体制と組織

 今回の座散乱木遺跡の発掘調査は、学界、行政を挙げて、捏造疑惑の核心を明らかにすることが、直接的な課題であることから、関係機関等が協力しあって、ともに調査を成功させる必要がある。発掘調査の体制は、日本考古学協会を中心とし、宮城県考古学会、文化庁、宮城県教育委員会、岩出山町より調査の指導助言者、および実際の発掘調査を行う調査員を出し、協力して進めている。また、特別委員会委員以外の日本考古学協会員、および全国の考古学専攻の大学院生や学生が積極的に発掘調査に参加している。自然科学的研究領域に関しては、岩石学、年代測定学、地質学、地形学、土壌学等の専門家が遺跡の再検討を行っている。なお、本調査は文部科学省科学研究費(研究代表者:明治大学矢島國雄)によって進められている。

4. 発掘調査区の設定と発掘調査の経過

調査区の設定
 旧調査区を拡張するT区、その北側への拡張部分であるU区、農道を挟んだ東側隣接地にV区、旧調査区の南側隣接地にW区を設定した(図2)。また、史跡指定地内各所に計14ヶ所の3m×3mの調査区(X区@〜M)を設定し、5月20日以後に順次調査する予定である。

調査の経過と今後の計画
 発掘調査は4月26日より約8週間の期間を予定しており、調査の経過と今後の計画は表1に示した。その主な内容を以下記述する。4月26日の発掘着手に先立ち、調査区の設定や現場事務所プレハブの設置等を行い、4月26〜29日に説明板の移設と植栽の移植、旧調査区の埋土の除去を行った。4月27日からはT区〜W区の検証発掘調査を順次開始した。5月19日現在で、T区とU区は13層上面相当部分に、W区は12層上面にそれぞれ到達している。かつて遺物が採集されたT区とU区の道路側法面部分も調査中である。V区は表土を除去しただけで、それより下位の調査は5月下旬から着手する。なお、午後2時30分よりその日の発掘調査の簡単なまとめを調査団で行い、午後3時30分より報道各社に対するブリーフィングを行っている。また、ホームページ(http://www.miyagi-ann.org/zazaragi/)に毎日の調査結果を掲示している。


表1 座散乱木遺跡検証発掘調査経過と今後の計画

5. 発掘調査結果の中間報告

 @1〜3層では縄文時代早期末の土器や石器(石鏃や磨石)が出土した(図3)。T区北東部分では同時期と考えられる竪穴状の遺構(南北約5m、東西約2.5m)が検出された(図4)。
 A4層(今から約1万年前に降下した肘折−尾花沢パミス)の下位である5層上面から剥片1点と5層中から石器1点(図4下左)が出土し、6a層と6b層から剥片計2点が出土した。また、6層上面と6b層の木の根攪乱部分から石器(図4下右)と剥片計2点が出土した。これらの石器が1万年より古いものであることは確実であるが、それが縄文時代草創期なのか、後期旧石器時代にまで遡るのかについては、姶良火山灰(約2.5万年前)の降灰層準の確認などを待って検討することになる。なお、石器は稜線部分がシャープであり、二次的に大きく動かされたものではなく、比較的安定した堆積の中に包含されていたと判断される。しかし、5層と6層から出土した石器は、第1次・2次調査の5層と6層で見られた出土状況(点数と分布)と大きく異なり、きわめて散漫な分布をしている(図4)。
 B第1次・2次調査では旧調査区南西部分の8層上面で多数の石器が出土し、2〜3ヶ所のまとまりをなしていた(図4)。しかし、本検証調査(T区・U区・W区)では今のところ1点の石器も出土していない。また、第3次調査では旧調査区北東部分の9層上面で石器が1点出土しているが、本検証調査(T区・U区・W区)では今のところ1点の石器も出土していない。
 C10層と11層では石器や遺構の存在は確認できない。
 DT区とU区は5月19日現在、13層上面相当部分に到達している。第3次調査では13層上面から計49点の石器が発見されており、旧調査区深掘部分(16層まで到達)の北壁中央寄り、南壁中央寄り、南西隅に3ヶ所のまとまりをなしていた(図5)。それらのまとまりはいずれも旧調査区の壁に接していることから、本検証調査区に広がりの延長があることが考えられた。しかし、その広がりの延長はなく、T区とU区他の部分でも1点の石器も発見されていない。さらに、4月30日〜5月1日と5月10〜12日に行われた地質合同調査の結果、従来の調査で12〜15層に細分された安沢火山灰下部は、細分されない単一の火砕流であるという一致した見解が提出されている。この見解に基づけば、安沢下部中には生活面は存在し得ないことになり、本検証調査によって13層上面相当部分から1点の石器も出土しなかったこと、日本考古学協会前・中期旧石器調査研究特別委員会第1作業部会等による13層・15層出土石器の検証の結果、疑義ある石器が少なからず存在することが判明している点等から見て、13層上面出土の石器は本来包含層中に原位置で存在していたものでなかった可能性がきわめて高くなる。この点については、T区・U区等の15層上面相当部分の発掘調査を待って、最終的に結論することになる。
 E旧調査区深掘部分(9×9m)の東から幅6mの範囲は、第3次調査で16層まで到達し、西から幅3mの範囲は、第3次調査で13層上面まで到達していた。本検証調査では西から幅3mの範囲の13〜15層相当部分を順に掘り下げていったが、石器はなかった。