宮城県岩出山町座散乱木遺跡発掘調査結果報告
座散乱木遺跡発掘調査委員会
座散乱木遺跡発掘調査団
2002年6月9日

1. 遺跡の位置と概況

 座散乱木(ざざらぎ)遺跡は、宮城県玉造郡岩出山町下野目字座散乱木に所在する。遺跡は江合川左岸に位置し、江合川とその支流に挟まれた南東に緩く傾斜する舌状の台地上に立地する(図1・図2)。標高は65m前後で、江合川との比高は約27mである。石器文化談話会によって1976年(第1次)、1979年(第2次)、1981年(第3次)に発掘調査が実施され、とくに、第3次調査は「日本前期旧石器存否論争」に決着をつける目的で実施された。1997年に国史跡として指定された面積は46,643uで、指定地部分での台地の幅は150mから180m、指定地の長さは北西から南東に約400mに及ぶ。旧調査区(既発掘区)とその隣接部分の現況は、埋め戻し後そのままで、雑草の刈り取り等の管理が行われているが、他は畑として耕作されている所と山林である。国史跡指定されたこともあり、現地の状況は、座散乱木遺跡第3次発掘調査が行われた1981年当時と大きな変化はない。


図1 座散乱木遺跡の位置

2. 発掘調査の目的

 今回の座散乱木遺跡発掘調査の第1の目的は、捏造疑惑の検証にあることはいうまでもない。学史的にも、わが国における前・中期旧石器時代研究のきわめて重要なひとつの出発点であり、座散乱木遺跡出土資料は、その後の前・中期旧石器時代研究にとって、当該期の基準資料としても位置付けられていたものでもあることから、その真偽を確実に科学的に検討する必要があることは贅言を要しない。
 日本考古学協会前・中期旧石器調査研究特別委員会(以下、協会特別委)第1作業部会が、2001年9月と2002年1月にすでに実施した13層および15層出土石器(中期旧石器時代あるいは前期旧石器時代後半と認定されていたもの)の検証において、黒色土の付着、新しい傷痕(いわゆるガジリ)、酸化鉄の線状痕、加熱処理の痕跡、押圧剥離の存在等が多数の資料について確認されることから、過去の座散乱木遺跡の当該期の出土資料は、学術資料として使うことには全体的に問題がある、との判断が示されている。さらに、6層上面出土の動物形土製品は、胎土に砂粒を含まないことなどから、より後世の遺物であろうと推定されているし、また、部分的に行われた8〜9層(後期旧石器時代と認定されていたもの)の石器の検証においても、疑惑の付着物の存在が指摘されており、捏造疑惑が第1次調査が実施された1976年まで遡る可能性もある(『協会特別委報告(U)』2002)。
 旧調査区およびその周囲の発掘では、北海道総進不動坂、山形県袖原3、宮城県上高森、福島県一斗内松葉山、埼玉県小鹿坂、同長尾根北・南等での検証発掘調査の方法に準拠して、(1)旧調査区最終面に残された過去の発掘調査痕跡の精査を行い、さらに、(2)既発見の遺物の広がりの延長が確実に検出できるか否かを確認することが必要である。
 同時に、(3)座散乱木遺跡発掘当初より一部で指摘されていた事柄でもあるが、遺物包含層の地質学的な性質、つまり地形形成史および土壌学的に見て、その包含層が生活址として評価できるのか否かといった、遺跡形成論的な調査が重要な課題となる。また、検証的な意味では、(4)後期旧石器時代を含む地層の年代や利用石材の理化学的な分析も重要な課題である。さらに、(5)本遺跡が国指定史跡であることから、学術的にも、行政的にも、旧調査区以外の史跡指定範囲についても学術的な調査のメスを入れ、この遺跡の真の内容や性格をつかむことが求められる。

3. 発掘調査の体制と組織

 今回の座散乱木遺跡の発掘調査は、学界、行政を挙げて、捏造疑惑の核心を明らかにすることが、直接的な課題であることから、関係機関等が協力しあって、ともに調査を成功させる必要がある。発掘調査の体制は、日本考古学協会を中心とし、宮城県考古学会、文化庁、宮城県教育委員会、岩出山町より調査の指導助言者、および実際の発掘調査を行う調査員を出し、協力して進めている。また、特別委員会委員以外の日本考古学協会員、および全国の考古学専攻の大学院生や学生が積極的に発掘調査に参加している。自然科学的研究領域に関しては、地質学、地形学、岩石学、土壌学、年代測定学等の専門家が遺跡の再検討を行っている。なお、本調査は文部科学省科学研究費(研究代表者:明治大学矢島國雄)によって進められている。

4. 発掘調査区の設定と発掘調査の経過

調査区の設定

 旧調査区を拡張するT区、その北側への拡張部分であるU区、また農道を挟んだ東側隣接地にV区、旧調査区の南側隣接地にW区を設定し、さらに史跡指定地内各所に計11ヶ所の3m×3mの調査区(X区@〜E・G〜J・L)を設定した(図2)。

調査の経過と今後の計画

 発掘調査は4月26日より約8週間の期間を予定しており、調査の経過と今後の計画は表1に示し た。その主な内容を以下記述する。4月26日の発掘着手に先立ち、調査区の設定や現場事務所プレハブの設置等を行い、4月26〜29日に説明板の移設と植栽の移植、旧調査区の埋土の除去を行っ
た。4月27日からはT・U・W区の検証発掘調査を開始し、6月9日現在、T・U区の面積の1/2が、W区の1/4が16層に到達した(図2)。かつて多数の遺物が採集されたT区とU区の道路側法面部分も調査し、13層相当に到達した。5月27日からはV区とX区の調査を開始し、13層以下は面積の1/4〜1/3が16層まで到達した。なお、調査団は午後2時30分よりその日の発掘調査結果をまとめ、午後3時30分より報道各社に対するブリーフィングを行ってきた。また、ホームページ(http://www.miyagi-ann.org/zazaragi/)に毎日の調査結果を掲示してきた。

地区/日程 4/23-4/25 4/26-5/4 5/5-5/11 5/12-5/18
I−@(45u)・A(27u) 測量・地区設定
プレハブ設置
器材搬入等
8層 8〜10層 11〜13層
I−B(18u) 6〜8層 9〜10層 11〜13層
I−C(108u) 1〜6層 8〜10層 11〜13層
II(63u) 1〜8層 9〜11層 12〜13層
III(38u) 表土除去    
IV(27u) 1〜8層上面 9〜11層 12層精査
V(126u)      
地区/日程 5/19-5/23 5/27-6/1 6/2-6/8 6/9-6/16
I−@(45u)・A(27u) 調査委員会
現地説明会
13〜15層
実測
写真撮影
16層
実測
写真撮影
分析試料採取
調査委員会
現地説明会
埋め戻し
撤収
I−B(18u)
I−C(108u)
II(63u) 13〜15層 16層
III(38u)   1〜11層 13〜16層
IV(27u)      
V(126u)   G〜I・L @〜E・J
表1 座散乱木遺跡検証発掘調査経過と今後の計画

5. 発掘調査の結果

 (1)T〜X区の地層を検討するならば、南東に緩やかに傾斜する舌状の台地上に位置するT〜W区、X@・A・E・H・I区では、基本層序(1〜16層)がおおむね確認できる(図2図3)。しかし、その西側の谷筋にあたるXB・C・D・J区では、表土下に4〜10層の地層を部分的に、あるいは完全に欠く。この原因は現代の開墾時の削平であろう。12〜16層がシルト化したり、16層以下の柳沢火砕流が脱色し白色化している(XB区)のは、谷がかつて頻繁に冠水していたことなどが原因していよう。東側の谷に向かって傾斜しているXG区では、4〜11層の地層を部分的に欠き、12〜15層相当部分が柳沢火砕流と二次的に混在する状況にある。この現象は谷筋の水の影響を受けた結果であろう。XL区では表土下がすぐに16層以下の柳沢火砕流となる。これは現代の開墾によって旧地形が大きく造成されたことによる。なお、当初調査を予定したXF区はV区、XE・G・H区に近接しているので、地層の状況が予想できる、XK区はXJ区に類似する地層と予想され、また西側の旧尾根(現座散乱木公園)を造成した際の土が約2mと厚く盛られている、XM区は谷筋に位置し、削平されて地層の残りが悪いと予想されることから、本検証調査の対象から除外した。

(2)1〜3層からはT〜V区で縄文時代早期末の土器や石器(石鏃や磨石)が多数出土した(図4−2〜10)。T区北東部分では同時期と考えられる竪穴状の遺構(南北約5m、東西約2.5m)が、V区では縄文時代の陥し穴(開口部直径約1m、深さ約1.6m)が検出された(図5)。XE区では縄文時代後〜晩期頃の土器片が1点、X@区では弥生時代の土器片多数(図4−11〜14)と土師器片等が出土した。他のX区では縄文時代〜古墳時代の遺物は発見されなかった。これは旧地形の削平がある程度関係しつつも、縄文時代の遺構と遺物の広がりの中心がT〜V区にあったこと、さらに旧地形などから見るならば、今回発掘できなかったT〜V区の北側にも広がっていたと推定される。

 (3)T・U区では4層(今から約1万年前に降下した肘折−尾花沢軽石を含む地層)の下位である5上面から剥片1点と5層中から石器1点(図5下左)が出土し、6a層と6b層から剥片計2点が出土した。また、6層上面と6b層の木の根攪乱部分から石器(図5下右)と剥片計2点が出土した。これらの石器が1万年より古いものであることは確実であるが、それが縄文時代草創期なのか、後期旧石器時代にまで遡るのかについては、姶良火山灰(約2.8万年前)の降灰層準の確認などを待って検討することになる。石器は稜線部分がシャープであり、二次的に大きく動かされておらず、比較的安定した堆積の中に包含されていたと判断される。しかし、5層と6層から出土した石器は、第1次・2次調査の5層と6層で見られた出土状況(点数と分布)と大きく異なり、きわめて散漫な分布をしている(図5)。なお、T・U区以外の調査区では当該地層から遺物の出土はなかった。

 (4)第1次・2次調査では旧調査区南西部分の8層上面で多数の石器が出土し、2〜3ヶ所のまとまりをなしていた(図5)。しかし、T・U区を含む本検証調査区の8層上面から1点の石器も出土しなかった。また、第3次調査では旧調査区北東部分の9層上面で石器が1点出土しているが、本検証調査では1点の石器も出土していない。

(5)本検証調査において10層と11層、そして12層上面でも、石器や遺構の存在はまったく確認できない。

(6)T・U区に隣接する道路法面では第3次調査までの間に2〜12層から多数の遺物が採集されていた。本検証調査ではこの部分の幅約1〜1.5mの範囲を1〜13層上面相当部分まで掘り下げたが、2〜3層で縄文時代の石器が出土した以外、いかなる遺物も発見されなかった(図6)。これはきわめて不自然なことである。

 (7)T・U区は5月19日に13層上面相当部分に到達した。第3次調査では13層上面から計49点の石器が発見されており、旧調査区深掘部分の北壁中央寄り、南壁中央寄り、南西隅の3ヶ所にまとまりが存在した(図6の●)。それらのまとまりはいずれも旧調査区の壁に接していることから、まとまりが真実のものであれば、本検証調査区に広がりの延長があることが十分考えられた。しかし、本検証調査区13層上面相当部分にはその広がりの延長はなく、T・U区の他の部分でも1点の石器も発見されなかった。これはきわめて不自然なことである。

 第3次調査では15層上面から計14点の石器が発見されている(図6の■)。13層上面相当部分のうち旧調査区から幅2〜3mの範囲が、5月23日に15層上面相当部分に到達したが、1点の石器も出土しなかった。さらにその範囲は5月29日に16層上面まで達したが、1点の石器も発見されなかった。

 (8)旧調査区深掘部分(9×9m)の東から幅6mの範囲は、第3次調査で16層まで到達し、西から幅3mの範囲は、第3次調査で13層上面まで到達していた。本検証調査では西から幅3mの範囲の13〜15層相当部分を順に掘り下げていったが、石器はなかった。

 (9)4月30日〜5月1日と5月10〜12日に行われた地質合同調査の結果、従来の調査で12〜15層に細分された安沢火山灰下部は、細分されない単一の火砕流であるという一致した見解が提出されている。

6. 発掘調査の結果に基づく遺跡の評価

 (1)第3次調査で12〜15層に細分された安沢火山灰下部は、細分されない単一の火砕流であって、安沢下部中には生活面は存在し得ないことになり、本検証調査によって13層上面相当部分からも15層上面相当部分からも1点の石器も出土しなかったこと、協会特別委第1作業部会等による旧13層・15層出土石器の検証の結果、疑義ある石器が多数存在することが判明している点等から見て、旧13層上面と旧15層上面出土の石器は、本来包含層中に原位置で存在していたものでなく、座散乱木遺跡以外から持ち込まれて埋め込まれたものであると判断される。

 (2)本検証調査では、5〜6層から石器が、1〜3層から縄文時代〜古墳時代の遺構や遺物が出土していることから、座散乱木遺跡は後期旧石器時代ないし縄文時代草創期から古墳時代の遺跡であるといえる。

 (3)しかし、検証調査区における縄文時代草創期ないし後期旧石器時代の石器の分布は、T・U区に限定され、その密度は非常に低い。これはT〜V区に接する道路法面と旧調査区(第1・2次調査)における5〜8層上面(縄文時代草創期と後期旧石器時代)の遺物の出土状況と、じつに好対照であり、藤村氏関与段階の当該期の遺物の出土状況は不自然きわまりない。さらに、本調査団が第1次・2次調査出土の当該期の遺物に対して部分的に行っている観察においても、疑義ある付着物と痕跡がいくつも存在することから見て、藤村氏関与段階の5〜8層上面(縄文時代草創期と後期旧石器時代)の遺物には、すべてではないにしても、遺跡以外から持ち込まれて埋め込まれたものが多数含まれている可能性が高い。この点については、今後の当該期の遺物検証の結果を待って、最終的結論を下したい。