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みやぎ遺跡発掘2008

発掘された遺跡が語る歴史の新事実。発掘現場へ出かけよう。

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日向洞窟遺跡西地区石器群の研究T -縄文時代草創期の槍先形尖頭器を中心とする石器製作址の様相-
縄文時代のはじまりを探る
 山形県高畠町の日向洞窟遺跡西地区は、縄文時代はじめ頃の日本でも有数の規模を誇る石器づくりの跡です。
 石の槍を作った後に残った大量の石のかけらまでを無駄なく使って、矢じりなどの小さな石器も作っていました。
 日向洞窟遺跡は、米沢盆地の東縁、山形県東置賜郡高畠町に所在する。洞窟は古くから「エゾ穴」と呼ばれ、遺物採集の場所として知られていたという。
 1955年には山形大学の柏倉亮吉を団長とする調査団によって本格的な発掘調査が行なわれ、隆起線文土器など縄文時代草創期の土器群や、それに伴う各種の石器群の存在が明らかとなった。
 そして1987年、洞窟の西約150mの地点が高畠町教育委員会によって発掘調査された。この結果、縄文時代草創期中葉のきわめて大規模な石器製作址の存在が明らかとなったのである。
 本書は、世界史的に見て最も重要な日向洞窟遺跡西地区の縄文時代草創期の石器群に関する調査・研究の第一段階の成果をまとめたものである。
 今回の主な目的は、石器群の分布、組成、器種分類、槍先形尖頭器製作を中核とする素材供給の技術基盤に関する全体像を報告することである(本文より)。
佐川 正敏 ・ 鈴木 雅 編
A4版136ページ・オールカラー 3,000円(送料込) 
残部僅少です 【詳細はこちら】

東北日本の石刃石器群
東北日本の旧石器文化を語る会 第20回記念大会シンポジウム資料集(2006年11月)
A4版325ページ・並製本 頒価1冊 3,500円(送料450円) 【内容詳細とご注文はこちら】

同成社 シリーズ「日本の遺跡」 東北の本棚
陸奥国初期の国府とされる郡山遺跡。注目を集めた石組池など最新の発掘成果から当時の官衙のありようを分析し、その後、国府の移された多賀城との比較検討からその変遷を考察しつつ、七世紀の東北の諸相を追究する。
古代東北の行政・軍事的中心だった多賀城について、最新の発掘データから詳細に分析し、さらに周辺の多賀城廃寺や国府域など広い範囲を考古学的に分析することにより、東北古代都市の実像を描き出す。
律令国家による蝦夷征討の橋頭堡たる志波城は水害により移転することになり、徳丹城が築造された。そうした歴史的経緯から兄弟とも言われるこの二つの城柵を考古学的に分析し、各々の特性を究明する。
大化改新前後の陸奥国最大の白河郡における地方豪族の動向が、半径2kmの範囲に集中した古墳・居館・郡衙・寺院によって解明される。白河郡衙遺跡群の過去・現在・未来を、最新の発掘データをふまえて一冊に凝縮。
三内丸山に匹敵する巨大柱穴の発見で注目された宮畑遺跡。焼失住居など特徴的な遺構を詳述し、縄文中~晩期の集落の様相を解説する。遺跡の過去・現在・未来を、最新の発掘データをふまえて凝縮した、遺跡の総合ガイドブック。
陸奥一帯を支配した戦国大名南部氏の本拠地・根城について、早くから行われてきた発掘調査と復元に携わってきた著者が、主殿や本丸の確定作業から建築物の復元・完成にいたるまでの道程を平易に解説する。
奈良時代、律令国家の対大陸外交・対北方交流重視政策のもと創建された秋田城。出羽国における地域支配の拠点として、行政と軍事の中心であり続けた実態を、最新の発掘調査結果から明らかにする。
新潟県糸魚川市にあり、早くからヒスイの玉や磨製石斧などの生産遺跡として知られてきた長者ケ原遺跡。戦前の発見、戦後直後の調査から最新の発掘データ、整備のありようまでを概観しつつ、その特性を浮き彫りにする。
北見市常呂町周辺のオホーツク海沿岸の砂丘上には、縄文時代からアイヌ文化期までの長期間にわたり営まれつづけた竪穴住居跡が無数に残る。本書では、そうした常呂の大集落遺跡について、続縄文、擦文、オホーツク文化などの時代を特色を押さえつつ通史的に解説していく。
現代の釧路湿原国立公園内にあり、旧石器時代からアイヌ文化期までの長きにわたって生活が営まれた北斗遺跡。湿原の変容や周辺遺跡の消長などにも触れつつ、通史的に解 説し、北海道集落跡の特性を究明する。

新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」 東北の本棚
岩手県北部の内陸地方、クリ・コナラなどの樹木にかこまれ、縄文の世界をほうふつとさせる高台に御所野遺跡はある。焼失住居跡の調査による土屋根住居の復原、竪穴住居群の有機的関連を考慮した縄文ムラの復原などをとおして、縄文の風景をよみがえらせる。
日本三景の一つ、宮城県・松島湾に臨む広大な貝塚群・里浜貝塚。その貝層の緻密な分析は縄文人の季節ごとの生活の姿を明らかにした。春の内湾の漁とアサリ獲り、夏の外洋の漁と塩づくり、秋の木の実採集、冬の狩猟…と続く縄文人の生業カレンダーがよみがえる。
秋田県北東部、遠くに山並みを望む見晴らしのよい台地に、縄文後期につくられた径四十数メートルの二つのストーンサークルがある。近年の発掘で周辺にも多くの石の遺構がみつかった。厖大な数の石を運び、巨大なモニュメントをつくりあげた縄文人の祈りをさぐる。
会津盆地の大型の前方後円墳・会津大塚山古墳は、三角縁神獣鏡が出土した日本列島最北端の古墳である。それは古墳時代のはじまりの頃すでに、東北に有力な首長が登場したことを物語る。周辺の古墳・弥生遺跡を含めて、北の古墳時代社会が成立していく過程に迫る。
七世紀後半から九世紀にかけ、律令国家は、蝦夷の激しい抵抗を受けながらも東北支配を拡大していった。それを支えたのが国府多賀城の後背地、福島県相馬地方の鉄生産である。大量の武器・農耕具・仏具を供給するために推進された古代製鉄の全貌を明らかにする。