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四面庇付の建物跡を発見−城柵内部の重要施設か

大崎市 新田柵跡推定地 (奈良時代)
遺跡データ
遺跡名 新田柵跡推定地(にいたのさくあとすいていち)
所在地 大崎市田尻大嶺・八幡地区
調査主体 大崎市教育委員会
調査原因 学術調査(範囲内容確認調査)
公開日 2008年10月25日(土) 13:00〜
参考資料 「新田柵跡推定地 第10次調査 発掘調査成果見学会資料」
大崎市教育委員会 2008.10.25


見学会の様子
 奈良時代の中央政府は、当時蝦夷と呼ばれた人々が暮らしていた東北地方の北部にその勢力を広げるため、いくつもの城柵(政治・軍事の拠点)を設置しました。

 「続日本紀」によると、天平9年(737年)には陸奥国に多賀柵・牡鹿柵・色麻柵・玉造柵・新田柵の5つの城柵があったことが記されていて、「天平五柵」と呼ばれています。

 大崎市田尻の大嶺・八幡地区の丘では、奈良・平安時代の土器や瓦が多く出土し、丘を囲むように土塁や塀の跡が見つかっています。

 大嶺・八幡地区の丘に残された遺跡は、歴史・考古学者によって「天平五柵」のうちの「新田柵」であると考えられています(注1)。

 今回の発掘調査では、8世紀中頃に建てられた掘立柱建物跡が発見されました。建物跡は南北9m×東西12.6mの大きさで四方に庇が付き、床を支えた小さな柱も見つかったことから床板が張られていたことも分かりました。

 付近ではこれと同規模で庇のない建物跡が数軒並んで見つかっており、城柵内でも重要な場所のひとつだったことが分かっています。当時、庇の付く建物は格式が高い建物に限られるため、今回見つかった建物跡がこの一角で重要な役割を担ったと考えることができるそうです。

注1:ちなみに、多賀柵は多賀城市多賀城跡、牡鹿柵は東松島市赤井遺跡、色麻柵は加美町城生柵遺跡、玉造柵は大崎市名生館官衙遺跡・宮沢遺跡にあったと考えられています。

見学会の様子

四面庇付きであることが判明した建物跡(ピンク色のテープで囲まれている部分)。内側が身舎、外側が庇の部分で、いずれも床板が張られていました。

建物跡の柱穴。ピンの立っているところが柱の跡です。四角い穴を掘って柱を立てた後に、丁寧に突き固めながら埋め戻しているのがわかります。

ピンの立っているところに身舎の柱の跡があり、その左側に床を支えた小さな柱の跡があります。

出土した瓦
2009.5.21更新