MIYAGI ARCHAEOLOGY INFORMATION Vol.27 2002.7.20



読者の皆さまへ

 忘れもしない2000年11月5日の捏造発覚から1年半、学会が取り組んだ検証調査の総括として公表された日本考古学協会の統一見解によって、藤村関与遺跡の学術的価値は全否定されるに至った。日本の前・中期旧石器時代研究は事実上白紙に戻り、3万年前以前の前期旧石器存否論争に終止符を打ったとされてきた座散乱木遺跡の発掘調査が開始された1976年時点に戻って再出発する必要が生じた。現在のところ藤村が関与していない前期旧石器時代の遺跡に確実なものはなく、中期旧石器時代に遡る可能性のある遺跡も岩手県金取遺跡など数か所に限られる。約60万年以上前にまで遡るとされた東アジア大陸の東端、日本列島地域における人類史は、確実なところでは約3〜4万年前程度に巻き戻されることになる。
 捏造発覚前はもとより、2000年11月に上高森・総進不動坂での捏造が発覚してもなお、筆者はこれほどまでの事態に陥るとは到底予測できなかった。特に筆者を含めて発掘・踏査などで藤村と行動を共にして彼が石器を掘り出す場面に立ち会ったり、また自らが石器を掘り出した経験のある人の間では、捏造が1999〜2000年の調査に限定的な事件とする考えが支配的だった。
 だが、2001年夏の検証発掘調査で袖原3遺跡が全面的に捏造されていたことが明らかになったことで、この問題に対する考古学界の認識は大きく変化した。袖原3遺跡は東北旧石器文化研究所設立直後に調査が開始された遺跡であったが、検証結果が示した徹底した捏造行為の実態は筆者らに最悪のシナリオを描かせるのに充分すぎるものであり、決して一民間組織だけに限定される問題でないことは明白であった。
 これ以後も検証作業は続けられ、石器の検討や遺跡の検証発掘調査が実施されたが、それは「最悪のシナリオ」の裏付け作業と言ってよいものであった。各地の藤村関与遺跡・遺物に残された捏造の証拠が次々に明らかにされていったのである。
 本誌では1995年4月の創刊号から2000年9月の第25号まで、幾度となく藤村関与遺跡における虚偽の調査成果を事実として報じてきたことになる。2000年2月の第24号では藤村の写真と共に彼の「業績」を紹介した。ここに、前・中期旧石器時代の調査成果として本誌で取り上げてきた北海道総進不動坂遺跡、下美蔓西遺跡、宮城県座散乱木遺跡、山田上ノ台遺跡、高森遺跡、上高森遺跡、中島山遺跡、山形県袖原3遺跡、岩手県ひょうたん穴遺跡、福島県原セ笠張遺跡、一斗内松葉山遺跡、埼玉県長尾根遺跡に関するすべての内容について全面的に撤回すると同時に、皆さまへは改めて心からお詫び申し上げる次第である。
 なお、一連の検証作業によって学術的価値が否定された藤村関与の調査成果を排除しても、一定の学術的価値を残す遺跡はある。仙台市山田上ノ台遺跡は後期旧石器時代と縄文時代中期の遺跡であり、岩出山町座散乱木遺跡は縄文時代早期から古墳時代にかけての、築館町上高森遺跡は縄文時代の遺跡である。地底の森ミュージアムとして整備されている仙台市の富沢遺跡(後期旧石器時代)は、藤村関与部分を排除してもその学術的重要性は変わらない。岩手県岩泉町ひょうたん穴遺跡は縄文時代早期以降の貴重な洞穴遺跡であり、旧石器時代の人類化石発見の可能性は未だ残されている。
 冒頭で捏造発覚の日を「忘れもしない」と書いたが、もうひとつ、忘れられない光景がある。それは他でもない、発掘現場での藤村の姿である。体調を崩しながらも必死で掘り続け、石器が出土すると皆で祝杯をあげた。自ら捏造し、皆の前で掘り出した石器をつぶさに見つめるその瞳は、確かに輝いていたように筆者の目には映った。彼の考古学に対する人一倍情熱的でひたむきな姿は、いったい何であったのだろうか。
 捏造発覚の「あの日」から1年半余り。この間、筆者は袖原3・上高森・座散乱木と3つの遺跡で検証発掘調査に参加する機会を与えていただいた。そうして藤村が行った捏造の全容に近づけば近づくほど、その光景は私の目に鮮明に焼きついて離れなかった。そして、捏造している彼の姿とはどうしても重なることはなく、まるで別人のままであった。
 捏造発覚まで彼の姿に一点の疑いも持てず、また学術的にも発掘成果を疑うことが出来なかったことを改めて悔い、虚偽の調査成果を事実として伝えたことに対し、皆さまに重ねてお詫び申し上げる次第である。

宮城考古学情報 編集発行人 鈴木 雅
(WEB版作成にあたり本文を一部改訂した)