MIYAGI ARCHAEOLOGY INFORMATION Vol.27 2002.7.20



桃生町・河北町 桃生(ものう)城跡(現地説明会:2001.09.15)

 桃生城跡は陸奥国府・多賀城の出先機関としての役割を果たした城柵である。不整形の独立丘陵上に立地し、外郭は築地塀や材木塀で区画され、中心部分にはさらに築地塀で囲まれた政庁が存在する。「続日本紀」によると、天平宝字2(758)年に造営が開始され、2年後には完成したが、宝亀5(774)年に「海道の蝦夷」によって西郭から攻められたことが記載されており、東北の古代城柵でも創建年代が明らかな数少ない例の一つとされる。
 桃生城の西郭にあたるとみられた南西部の丘陵平坦地の調査(第10次)では、竪穴建物跡5棟と方形の土坑1基が発見された。建物内から出土した土師器から、桃生城造営前の飛鳥時代末頃から奈良時代前半頃のものと考えられる。これらの建物が使われなくなった後、建物などが造られていないことから、桃生城が機能していた奈良時代後半には、鎮兵や兵士が一時的に駐留する場所として使われたか、眺望を確保するためにあえて建物が造られなかったとみられる。
 これまでの調査の結果、宝亀5(774)年に起こった「海道の蝦夷」の攻撃は、政庁および西側官衙の主要建物、城内区画築地塀に取り付く櫓など城内の主要な施設を焼失させ、桃生城が壊滅的な打撃を受けた様子が明らかになった。また「続日本紀」の「海道の蝦夷」の攻撃についての記録にみえる「(海道の蝦夷が)西郭を敗る」の位置について、これまで城内を二分する築地塀の西側をさすと想定されてきたが、第9・10次調査により西側の主要な平坦部には桃生城が機能していた時期の建物が造られていないことが判明した。このため西郭の位置が政庁西側の官衙域を指していた可能性が出てきた。