MIYAGI ARCHAEOLOGY INFORMATION Vol.27 2002.7.20



田尻町 新田柵(にったのさく)跡推定地(現地説明会:2001.08.11)

 「続日本紀」の天平9(737)年条にその名が記されている新田柵は、奈良時代に律令政府が陸奥国の支配の拡大をめざして設置した城柵の一つで、田尻町北西部の丘陵上が新田柵跡として推定されてきた。
 田尻町教育委員会による1990年度からの調査で、城柵の外郭区画施設と考えられる築地塀跡と材木塀跡が東西約1.5km、南北約1.7kmの範囲で築かれていることや、北門・西門跡と考えられる遺構の存在が明らかにされ、新田柵跡としてほぼ確実視されるに至っている。しかしなお、外郭の正確な範囲や城柵の中枢となる政庁のほか、主要な建物配置など未解明の部分も多い。1999年度からは田尻町教育委員会が5か年計画で「新田柵跡推定地」範囲確認調査を進めており、初年度の調査では土器に付着した漆紙文書(漆を保存する容器の蓋紙として再利用された文書が漆の付着によって腐食を免れた特殊な遺物)が発見され、8世紀後半頃の帳簿の断片であることが判明している。
 城柵内部の解明を目的とした今回の調査では、外郭西門の東約300mの地点で奈良時代に建てられた南向きの門跡を発見した。構造は外郭西門と同じ八脚門で、多賀城跡でも見つかっている格式の高いものである。門跡は城柵全体の南西部を区画しているとみられる材木列の延長線上に位置しており、南門の可能性があるという。
 また、外郭西門跡の南東約15mの地点で行われた町道改修工事に伴う調査では、1998年度に西門と方向をそろえて発見された掘立柱建物跡が、桁行6間・梁行3間の東西棟であること、さらに東側に同規模とみられる掘立柱建物跡が柱筋を合わせて並んでいることを確認した。1999年度の調査でも北側に大規模な建物跡が発見されていることから、西門を挟んで北と南に大型の掘立柱建物跡が並び建っていたことが明らかになった。