MIYAGI ARCHAEOLOGY INFORMATION Vol.27 2002.7.20



前期・中期旧石器問題レポート―前期・中期旧石器遺跡捏造事件―

岩宿の発見と日本の旧石器研究の開始

 戦前まで、日本の歴史は縄文時代から始まると考えられていました。およそ一万年前よりも古い時代の日本列島では火山活動が活発に起こり、毎日毎日地上に火山灰が降り積もり、人類は言うまでもなく動物も住むことが出来ない状態であったに違いないというのが地質学者らの常識だったのです。このため考古学者が行う発掘調査でも、地表面から黒土までを掘り、奈良・平安時代から古墳・弥生・縄文時代までの人間の生活の跡を検出し、火山灰からなる赤土層に達すると「基盤に達した」とか「地山が出た」と言って調査は終了でした。しばしば土器片が赤土層の上面に突き刺さった状態で出土することはありましたが、赤土層そのものを発掘するということは行われていなかったのです。
 ところが戦後間もない1946年に群馬県岩宿の赤土(関東ローム層)の露頭から細石器様の石剥片を発見していた相沢忠洋氏は、1949年に同じ露頭から黒曜石製の槍先形尖頭器を発見したことで、赤土の中に埋もれた未知の旧石器文化の存在を確信します。これを当時明治大学の大学院生であった芹沢長介氏のもとに持ち寄り、同年秋に杉原壮介氏を調査主任とする明治大学考古学研究室と相沢氏の東毛考古学研究所が合同で岩宿遺跡の第一次発掘調査を行いました。これによって日本の後期旧石器文化(約1万2千年前〜3万年前)の存在が認知され、ここに本格的な日本の旧石器研究が始まったのです。

石器文化談話会と前期旧石器の発見

 岩宿の発見から10年ほどの間に全国各地で後期旧石器時代の遺跡の発見が相次ぎ、100か所ほどの遺跡が報告されましたが、小規模な調査が多く編年研究も流動的でした。1960年代後半になると開発に伴う調査が増加し、神奈川県月見野遺跡や東京都野川遺跡などのように大規模かつ層位的な発掘調査によって後期旧石器時代の編年と遺跡構造の研究が急速に進展します。1980年代以降は大開発の波が地方へも波及し、全国的に遺跡の調査が増加するとともに大規模化していきました。現在までに全国で5000か所を超える遺跡が発見され、揺るぎない多角的な研究成果が積み上げられています。
 この頃から研究者間での情報交換の必要性が認識されるようになり、各地で旧石器時代の研究会が設立されるようになります。そうした中、宮城県でも1975年に「石器文化談話会」が設立され、旧石器時代遺跡の発見と調査にあたってきました。石器文化談話会には広く学生、教師、主婦、農家の人たちが集まり、月一回の例会には旧石器時代を中心とした学習会を開き、遺跡を探して歩きました。全国的にカンパを募って自主発掘を行い、学生は実践の場として、また体力のある人は粗掘り、主婦はお茶の準備など各人が出来る範囲で協力しました。
 旧石器時代の研究開始後しばらくは日本列島での人類の足跡はおよそ3万年前の新人段階からとされていましたが、一方でさらに古い前期・中期旧石器時代文化の探求が積極的に続けられ、原人や旧人の文化の存在を主張するいくつかの報告がなされました。しかし、確実に3万年前以前に遡る遺跡の存在を学界全体が認めるには至らず、否定的な雰囲気が強い中、前期旧石器時代存否論争が繰り広げられていました。
 この論争に一石を投じたのが、座散乱木遺跡の発見と山田上ノ台遺跡の発掘調査でした。1980年春に宮城県座散乱木遺跡の赤色風化土層の露頭から発見された石器には、同時期の中国北部やシベリア大陸の中期旧石器文化との共通性が見出され、後期旧石器時代より古い特徴を持ったものと考えられたのです。同年秋には仙台市山田上ノ台遺跡でも約3万年前にさかのぼる地層から、さらに翌年の秋には座散乱木遺跡の約4万年前とされた地層からの石器の出土が正式な発掘調査によって確認されました。これによって、日本列島の歴史は中期旧石器時代にまで遡ることがほぼ確実視されることになります。
 その後、宮城県の中峯C遺跡や馬場壇A遺跡の発掘が進み、発見された石器群には地層の理化学的な年代測定などによって前期旧石器時代の20万年前を遡る年代が与えられました。宮城県の北西部を中心に、地層の地質学的所見や理化学的年代測定によって火山性堆積物の堆積順序や堆積年代が明らかになり、それら一連の地層から断続的に石器が発見・発掘されて、この地域の旧石器時代の時代区分と石器の変遷が確立されていきました。

遡る最古年代と相次ぐ奇跡的発見

 1980年仙台市山田上ノ台遺跡、1981年岩出山町座散乱木遺跡の発掘以後、宮城県内では1981年仙台市北前遺跡、1983年多賀城市志引遺跡・大和町中峯C遺跡、1984年仙台市青葉山B遺跡、1984-88年古川市馬場壇A遺跡、1987年多賀城市柏木遺跡、1989・90・92年築館町高森遺跡、1990年村田町小泉東山遺跡、1993-95・98-2000年築館町上高森遺跡、1996年仙台市青葉山B遺跡、1998-99年色麻町中島山遺跡というように精力的に調査がなされました。
 この影響は県外にも広がり、1987年東京都多摩ニュータウンNo.471-B遺跡、1988年群馬県入ノ沢遺跡、1989年福島県上野出島遺跡、1990年福島県大平遺跡、1992年群馬県桐原遺跡、1992・93年福島県竹ノ森遺跡、1993・94・96・97・99年山形県袖原3遺跡、1995-97年福島県原セ笠張遺跡、1995-2000年岩手県ひょうたん穴遺跡、1998-2000年北海道総進不動坂遺跡、1999年福島県箕輪宮坂遺跡・山形県袖原6遺跡、2000年福島県一斗内松葉山遺跡・埼玉県小鹿坂・長尾根・長尾根北・長尾根南遺跡・山形県新庄市上ミ野A遺跡・群馬県下川田入沢遺跡が発見・調査されました。
 遺跡の年代と調査の経過を照らし合わせると、座散乱木遺跡が基盤に到達した頃、馬場壇A遺跡でそれより古い地層から石器が見つかり、馬場壇A遺跡で基盤に達した時、高森遺跡でそれよりはるかに古い地層から石器が発見されるというような流れを見ることが出来ます。そして、99年の上高森遺跡や袖原6遺跡、2000年の一斗内松葉山遺跡の調査では70万年前遡るかもしれないといわれる地層から石器が発見されはじめ、日本列島における前期旧石器時代の年代観は底無しの様相を見せ始めていました。
 年代を遡るだけでなく、石灰岩洞穴のひょうたん穴遺跡では数万年前の貝殻や獣骨が石器とともに発見され、化石人骨の発見も期待されていました。98年には中島山遺跡と30km離れた袖原3遺跡の10万年前の地層で発見された石器が接合し、旧人が奥羽山脈を越えて移動生活を送っていたと考えられました。また、上高森遺跡の94年の調査では60万年前の地層から石器を配列して穴の中に埋めた石器一括埋納遺構が発見され、以後上高森遺跡の調査では毎年のように同様の遺構が見つかるようになります。98・99年の中島山遺跡の調査でもやはり同様の遺構が10万年前の地層で確認され、文化の担い手が原人から旧人へと交代した後も石器の埋納行為が数十万年にわたって普遍的に行われていた証と考えられました。2000年1月の小鹿坂遺跡の調査になると石器の埋納遺構は言うに及ばず、周囲に溝を巡らせた径約2.5mの盛土を形成し、その中に5本の柱穴群を規則的に配置した50万年前の遺構を確認、同様の視点で進められた同年秋の上高森遺跡の調査でもやはり同様の遺構群が60万年前の地層から発見され、原人が小屋や墓をつくっていたとも言われるようになりました。

捏造発覚で揺らぐ日本考古学

 石器文化談話会設立以来の一連の考古学的成果の多くは、会員の一人であった藤村新一の手によるものでした。座散乱木遺跡に始まる前期・中期旧石器時代の主要な発見の舞台には、いつでも藤村の姿がありました。藤村が本格的に調査活動に関わるようになった1980年頃から国内最古の遺跡の年代は加速度的に遡り、旧人段階を飛び越し一気に原人段階、すなわち50万年前、60万年前に遡るとされ、その成果が既成の事実として教科書や一般書に多く記述されることになりました。藤村による遺跡発見の過程で、国内最古の遺跡の年代に関する歴史教科書の記述は4度書き換えられました。そうした奇跡的な発見を続ける藤村をマスコミはいつからか「石器発見の神様」とか「神の手」として取り上げるようになりました。1981年の座散乱木遺跡での石器発見や、1993年に出された高森遺跡の石器出土層の年代測定結果「50万年前」が毎日新聞のスクープとして報道されたのを筆頭に、当該期遺跡の調査成果を伝えるマスコミの報道は急速に加熱していきます。おおむね1週間ほどの発掘調査期間中、現場には常に十数社のマスコミが待機するといったような状況が日常化していました。
 しかし、2000年夏の総進不動坂遺跡、同年秋の上高森遺跡の発掘調査中に藤村自らが石器を埋め、遺構を捏造している様子を毎日新聞社の旧石器遺跡取材班がとらえ、11月5日に報道しました。旧石器発掘捏造―日本考古学史上未曾有の大事件でした。筆者も宮城県内の考古学情報を発信してきた立場として、また一連の調査に参加してきた一人として言葉にならないほど大きな衝撃を持って受け止めることになりました。
 藤村は毎日新聞の取材に対して、取材班が捏造の証拠となるビデオ映像と写真を呈示した上記の2件のみについての捏造を認め、この2遺跡のそれ以前の出土石器やその他の全ての遺跡について捏造を否定しました。その後の共同通信の取材に対しても同様の態度を示しました。しかしながら、この事件が日本の考古学界、そして日本社会に与えた影響は計り知れないものがあります。考古学界においては宮城県を中心とする多くの研究者が藤村とともに20数年間にわたって積み上げてきた研究成果の全てが疑念に包まれ、日本社会においては考古学そのものに対する信用が揺らいだのです。

発覚以後の検証結果が語るもの

 2000年11月5日以降、筆者が管理するWEBサイトには最大で1日700件を超えるアクセスが集中しました。このとき筆者は群馬県下川田入沢遺跡の発掘調査に参加中であったため、WEBサイトの状況を把握することが出来ず、管理人不在の掲示板は誹謗・中傷・事実誤認などを含む書き込みが野放しとなり、混乱を極めていました。帰仙後の11月9日にはようやく「WEBサイトがあくまで管理人個人の運営によるものであり、調査団や大学と直接の関わりを持つものではないこと、また上高森遺跡の調査参加学生の一人としても常に全力で調査に臨んできたのであり、これまでの管理人個人の学生としての行動に恥ずべきところは何もなく、今後も学生一同でこれまで通り地道な努力を重ねていきたいという決意に変わりはない」旨のコメントを公表し、閲覧者の一応の理解を得ることが出来ました。また筆者はこのコメントの中で「当該遺跡の再発掘調査を早期に行い、誰もが納得できる結果を一つ一つ積み上げていくことで考古学の信頼回復に努めていくことが必要」との考えを示していました。
 未だ衝撃の只中にあった2000年12月、福島県で第14回東北日本の旧石器文化を語る会が開かれました。語る会では当初予定を大幅に変更し、前期・中期旧石器の検討に多くが費やされました。31遺跡、1700点余りの前期・中期旧石器を一堂に集めて展示、同時に当該期遺跡のこれまでの調査成果を網羅的に収録した資料集成を刊行しました。討論会では藤村が発見に関与した石器についてさまざまな疑問点が呈示され、その後の検討材料となりました。考古学界の中でもひと際大きな衝撃を受けていた東北の旧石器研究者らが自ら立ち上がり、驚くほど迅速な対応が為されたことは、その後の検証活動の方向性を模索する上で非常に大きな意義があったものと思います。
 発覚直後には文化庁が藤村の関与した全国の遺跡について調査を指示し、各自治体が調査の実態把握に乗り出しました。日本考古学協会や宮城県考古学会などが相次いで特別委員会準備会を発足させ、検証作業の環境が整えられました。
 その後、一斗内松葉山遺跡で個人住宅建設に伴う範囲確認調査の必要が生じ、あわせて藤村を団長とする調査団の前年の発掘調査成果の検証が行われることになりました。捏造発覚以後、事実上最初の検証発掘調査です。安達町教委による2001年4月から5月にかけての約1か月間に及ぶ調査の結果、調査団による発掘区やその周辺から遺物は出土せず、調査範囲内の斜面から2点の石器が発見されました。調査指導委員会による検討の結果、石器の周囲に移植ベラとみられる掘り跡が残されているなど、長い間遺跡の地層に包蔵されていたと考えるには、きわめて不自然であるとの結論が出されました。2点の石器が発見されたのは、一斗内松葉山遺跡発見の契機となった藤村による断面採取地点の近くであったことから、遺跡発見当初から石器の埋め込みが行われ、遺跡自体が捏造されていた可能性を示唆しました。
 尾花沢市教委は2001年6月から7月にかけて、袖原3遺跡の検証発掘調査を実施しました。藤村らの調査団の発掘区やその周辺を拡張して調査を進めたものの石器の出土はなく、袖原3遺跡発見の契機となった藤村による断面採取地点に設定した調査区でも石器は出土しませんでしたが、調査団が1993・94年に実施した第1次・2次調査区内の埋め土を取り除いたところ、旧調査面から3点の石器が確認されました。発掘調査検討委員会による検討の結果、いずれも石器の周囲に移植ベラと見られる掘り跡など不自然な点が極めて明瞭に認められ、人為的に埋められたものであるという結論が出されました。1次・2次調査区は1994年の調査終了以降は今回の調査で最初の石器が確認されるまでの間、埋め戻されていたことから、少なくとも1993・94年頃には石器の埋め込みが行われていたことがほぼ確実となりました。
 また2001年5月には東京都が設置した調査委員会による多摩ニュータウン471-B遺跡の石器と調査記録などについての検討結果が発表され、遺跡として不自然な点が多く指摘されました。
 埼玉県小鹿坂・長尾根北・長尾根南遺跡では6月から7月にかけて埼玉県による検証発掘調査が行われましたが、拡張した調査区から石器は一点も出土せず、小鹿坂遺跡では取り上げずに残されていた石器の産状を観察したところ、インプリント(地面に残される石器の跡形)が不鮮明で、周囲に広がるマンガン粒の付着も認められず、また遺構とされたものについても自然地形の誤認であったことが確認され、これらの遺跡でも捏造が行われていたとの見通しが濃厚になりました。
 袖原3遺跡の調査に参加した筆者は帰仙後に今回のことを一人になって冷静に考えたとき、あらためて2000年11月5日以来の衝撃をもって受け止めました。この調査結果により、一連の発掘調査において藤村による捏造行為が半ば日常的に行われていた可能性が極めて高くなったと言わざるを得ないでしょう。埋めた石器のうち少なくとも3点を掘り残しているという事実は、このとき既に1点や2点の埋め込みではなかったことを物語っています。捏造発覚当初、石器発見に寄せる周囲の過大な期待が藤村を心神喪失状態にさせたことが捏造行為の原因となったとも言われましたが、もはや周囲の誰かに直接的な原因があるという性質のものではなく、また「魔が差した」などという言葉で済まされる事件でないことは明らかでした。
 捏造という行為に対して考古学があまりにも無防備であった、ということに尽きるのだとあらためて今、思います。学問は信じることからは始まらない、疑うことから始まるのだといいます。正しい姿勢であると思います。しかし、考古学の発掘調査がお互いの信頼関係のもとに成り立っていることもまた事実です。人として仲間を信じたそのことに何の罪があるでしょうか。筆者自身、周囲からどれほど愚か者と呼ばれようが、人を信じた自分を恥じるつもりはありません。人を、学問を裏切った行為の方が絶対に悪いと思います。そして日本考古学がこれまでそうした行為を予期せず、またそれを見抜く術を持ち合わせていなかったということを強く認識しなければならないと思います。

日本の前期旧石器は本当に夢物語なのか

 それにしても、浪費されたたくさんの人々の時間と汗と情熱を思うと本当に言葉がありません。すべてが崩れ去ってしまうかのような気持ちになるけれど、今回の事件を単に大きすぎる代償に終わらせないためにも、私たちは前に進むことを考えなくてはなりません。しかし、いくつかの検証発掘調査によってこれほどまでに衝撃的な現実を突きつけられた今、「藤村が関与した成果のうち信頼できるものが在るか否か」といったような議論は、まったく意味を為さなくなったと言わざるを得ません。「一連の成果に与えられた考古学的評価の全ては一旦白紙に戻されるのが学問的に健全な判断である」というある識者の方の発言を、筆者はようやく受け入れることが出来ます。たとえそれらの成果を白紙に戻したとしても、日本列島に旧人や原人の文化が存在していたならば遺跡は必ず見つかるはずです。新しい成果が蓄積されたとき、白紙に戻した成果との再検討を経て考古学は「何が真実か」を示すことが出来ると思います。日本の前期旧石器は夢物語であったと言って終わらせてしまうことは簡単ですが、時間がかかっても私たちが自らの足で探し求める努力さえ惜しまなければ、真の前期旧石器に辿り着く日もいつかは訪れると信じて取り組みたいと思います。
 藤村が関与していない成果の中に、前期・中期旧石器時代に属すると考えられる遺跡があるといいます。1949年の岩宿遺跡発掘と前後して、相沢忠洋氏が群馬県権現山・桐原・不二山遺跡で3.5-5万年前のパミスに挟まれた中期旧石器を発見しています。1964年には芹沢長介氏が大分県早水台遺跡で段丘対比から前期旧石器末から中期初頭に位置付けられる石器群を発見しました。さらに1965年に愛知県の加生沢遺跡で紅村弘氏らが、地質学的所見から第三氷期に遡る前期旧石器時代と推定される石器を発見しています。近年ではAMS法によるC14年代測定法で約4万年前と推定されている長野県野尻湖の立ヶ鼻遺跡や仲町遺跡で、大型絶滅動物などの化石骨とともに石器が発見されています。また、岩手県の柏山館跡遺跡では約4万年前の石器群、金取遺跡では約8万年前の地層から炭化物集中や焼礫とともに石器が発掘されています。これらの遺跡については、今後引き続き考古学的な検討を重ねていく必要があるでしょう。
 また、日本では大陸から渡来してきたと考えられる62-63万年前の大型ゾウの化石や、45万年前のナウマンゾウの化石が見つかっています。つまり、大陸と日本列島が陸橋でつながっていた寒い時期が人類渡来のチャンスだったと考えられるのです。

日本考古学の底力を見せるとき

 発掘調査における捏造問題に直面した日本考古学は、発掘で真実を問い直すことが出来ました。問題となった遺跡を抱える自治体が率先して地域の歴史の解明に立ち上がったことは大きく評価されましょう。袖原3遺跡や一斗内松葉山遺跡の検証発掘調査において、東北の旧石器研究者らは現場で自ら石器の産状を観察し答えを出しました。研究者として仲間として、これほど辛い局面はなかったと思います。捏造発覚以後、多くの研究者らの並々ならぬ努力によって、日本考古学の社会的な信頼回復の道筋が見えてきたと言ってしまっては時期尚早でしょうか。しかしながらそのような方向性とは相反して考古学界全体の雰囲気としては、いまだ旧石器考古学または東北の考古学に限定的な問題として捉える向きがあることは無視できない事実です。考古学者は捏造を見抜けなかった現場を責める前に、全国で発掘調査に携わる一人ひとりが自らの手で防止策を確立して欲しいと思います。日本考古学全体が今回の事件を自らの教訓としないならば、同様の事件はいつかまた繰り返されるかもしれません。
 検証作業に触れた考古学者らの口からは、時折「むなしい」という言葉が漏れます。しかし考古学者は今、この問題をそのような感情的な言葉で済ませてしまうべきではありません。今回のことは考古学がそれ自体の学問的未成熟さを露呈したのであり、考古学界が一丸となって早急に取り組むべき課題と考えなくてはならないと思います。
 「捏造の有無」を前提とせずとも、科学にとって必要不可欠な「第三者による検証」が考古学においても十分に機能していたならば、ここまで深刻な事態は回避できたはずであり、多くの考古学徒や全国の歴史好きの子供たちが「むなしい」思いを味わうこともなかったかもしれません。
 それは、「相互批判が欠けていた」というような研究者間の個人対個人の視点とも異なります。研究批判を個人批判と誤解されるようなことを心配せずとも、考古学自体にある種のチェック機能を標準装備することが可能だったはずなのです。事実、自然科学の分野ではそのような機構が備わっており、ごく普通のこととして機能しているといいます。
 そして、そのような作業はある学問を進める上でのごく当然のプロセスとして考えるべきであり、その作業自体決して「むなしい」ことではありません。むしろ筆者は捏造事件発覚以後の考古学界の雰囲気そのものに「むなしさ」と感じざるを得ないのです。「石器の見方、旧石器研究の方法に誤りがあった」と主張する研究者もあります。決してその論点を否定するものではありませんが、それ以前に考古学界全体として早急に取り組むべき問題がここに存在しているのです。
 今回のことについてできうる限りの手を尽くして全体像を明らかにし、学問としての考古学に何が足りなかったのかをきちんと認識する作業がまず必要です。大方の考古学徒がそうした作業を「むなしい」もしくは自分には関係のないこととして避けて通るならば、私たちはこの「むなしい」思いをいつか再び味わうような気がしてならないのです。
 新しい視点が追加されて学問は発展します。考古学もまた例外ではありません。後期旧石器時代のめざましい研究の進展も、「岩宿の発見」が赤土に対する視点をもたらしたたことが契機となりました。そしてまた今回の問題は、考古学に対して文献史学で言う史料批判的な視点の重要性を指摘したとも言えるのではないでしょうか。
 文献史学における史料批判は、個々の歴史事象を、系統的な歴史叙述へと高めるための手段として、最も重要かつ基本的なプロセスです。しかし考古学においては、この作業が不完全なままに歴史叙述の試みとしての種々の論考が先行してしまうことも多く、またそのような経過が見落とされてきた側面はなかったでしょうか。研究者がさまざまな方法によって論じ、呈示する結論は、あくまでも資料的な意味では作業仮説であり、基礎となった考古資料の学問的価値・正当性・妥当性などが種々の条件に照らし合わせて判断されなければなりません。作業仮説はその後にさらに多くの視点に立った検証を経て、ようやく歴史的事実への解明へと近づいていきます。しかしこの作業仮説は、それを呈示した研究者の手を離れて既成事実となり、一人歩きを始めることが往々にしてあります。このとき、我々はその作業仮説が生み出される源となった基礎資料に無批判であってはならないのです。
 独断論や懐疑論に陥らぬよう、考古学の本性と限界、その基盤に関する欠陥について徹底的に指摘・検討し、将来の日本考古学のあるべき姿を探ることが今、求められています。

おわりに

 日本考古学協会などを中心とする実にたくさんの研究者の方々が前期・中期旧石器問題の早期解決を図ろうとご尽力されているさなか、甚だ未熟な筆者などがこのように私見を述べるべき立場にないことは明らかです。連日インターネットを含むあらゆるメディアがこの問題を取り上げ、混乱を極める中、筆者が確定的でない情報や憶測を含む記事を掲載することでさらに事態の悪化を招くことも予想されました。このため、筆者は捏造発覚直後の2000年11月9日にWEBサイト上で公表したコメントの中で「あくまで学生である筆者が公の場で個人的な立場から発言することは差し控え、当サイトとしては検証の結果を責任を持って伝えていきたい」との方針を示しました。しかしながら、筆者としてもこれまで、一連の前期・中期旧石器時代の調査・研究成果を積極的に市民の皆様に紹介してきた経緯があり、あくまでも本誌の発行人としてまたWEBサイトの管理人という独立した一個人として市民の皆様に自らの未熟さをお詫びしなくてはならないという思いを日に日に強くしていました。2001年夏、関係各位のご配慮により袖原3遺跡の検証発掘調査の場に立ち会う機会を得たことは、管理人にとって貴重な経験となったことはもとより、帰仙後に一連の前期・中期旧石器問題について自分なりに整理する時間を得ることができました。捏造発覚の「あの日」から実に1年半もの時間が経過しました。遅きに失した感は否めませんが、ここに、本誌とWEBサイトをご覧いただいている市民の皆様に謹んでお詫び申し上げるとともに、本稿が皆様に対して甚だ不十分ながらも本誌とWEBサイトとして説明責任の一端を果たすことができればせめてもの救いであります。

※本稿は、筆者の運営するWEBサイトにおいて2001年8月31日・10月23日付で公表したものに若干の修正・加筆を行い、本誌に再録したものである。参考・引用文献についてはここでは紙面の都合上割愛したが、WEBサイト上で公開している。

追 記 ―その後の検証作業―

・藤村の告白
 2001年5月以降、日本考古学協会前・中期旧石器問題調査特別委員会戸沢充則委員長による藤村新一との5回にわたる面談の結果、藤村が42か所で捏造を行ったことを告白した。このことが毎日新聞によって2001年9月29日に報道されたことで関係自治体を中心に混乱が広がり、10月7日に日本考古学協会盛岡大会で戸沢委員長が緊急報告を行った。告白のあった遺跡は2000年11月の発覚時点で認めていた宮城県上高森遺跡、北海道総進不動坂遺跡、そして検証発掘調査が実施され捏造の可能性が濃厚となっていた福島県一斗内松葉山遺跡、山形県袖原3遺跡、埼玉県長尾根、小鹿坂遺跡などのほか、3万年前以前の前期旧石器存否論争に終止符を打ったとされ国指定史跡となっている宮城県座散乱木遺跡、馬場壇A遺跡、高森遺跡など、日本列島の前期・中期旧石器の根幹をなす遺跡までもが含まれ、藤村が宮城県で旧石器研究に関与し始めた当初から捏造を行っていたという極めて衝撃的な実態が明らかとなりつつある。

・上高森遺跡の検証発掘
 宮城県上高森遺跡では2001年10月から11月にかけて14日間の検証発掘調査が上高森遺跡検証発掘調査団によって実施され、旧調査区の拡張、断面採取地点の隣接地点の発掘、遺構とされた部分の検証などが行われた。この結果、拡張区や断面採取地点の隣接地の新たな発掘では石器はまったく出土せず、遺構とされたものについても自然地形や土色の変化を誤認したものと確認された。また、旧調査区で石器が出土したとされる範囲内で3点の石器が新たに確認され、詳細な産状の観察を行いながら取り上げた結果、いずれも袖原3遺跡の検証と同様に人為的に埋め込まれた捏造の痕跡を残すものだった。拡張区では新たに縄文時代の陥し穴とみられる遺構が検出され、縄文時代の遺跡であることが判明、調査団では正式報告書において遺跡に対する最終評価を行うとしていたが、これを待たずに宮城県教育委員会は2001年12月26日付で上高森遺跡の遺跡台帳の登録を抹消した。

・座散乱木遺跡の検証発掘
 国指定史跡の宮城県座散乱木遺跡についても2002年4月から6月にかけて40日以上にわたる発掘調査が座散乱木遺跡調査団によって実施された。調査は旧発掘区の拡張と隣接地の発掘、国史跡指定範囲内の各所に小発掘区を設定して行われた。この結果旧調査区の拡張部分で約1万年前に降下した肘折‐尾花沢軽石を含む地層の下位から数点の石器が出土し、調査団では後期旧石器時代ないし縄文時代草創期のものとみている。また拡張部分と隣接地の発掘では縄文時代早期末の土器と石器が多数出土し、同時期と考えられる竪穴状遺構も検出された。指定範囲内各所の小発掘区では、2か所で縄文時代後期から晩期の土器片と弥生時代の土器片多数、古墳時代の土師器片などが出土した。しかし、後期旧石器時代ないし縄文時代草創期の石器の分布状況は極めて散漫であり、藤村関与段階の調査における後期旧石器時代と縄文時代草創期の遺物の出土状況の不自然さを明らかにした。
 地質学的検討では4万年前の石器が出土したとされた地層は火砕流によって形成されたものであり、生活面は存在し得ないとの結論が出された。これらの地層からは発掘調査でも石器は出土せず、調査団は4万年前とされた石器は遺跡外から持ち込まれて埋め込まれたものであると結論付けた。

・日本考古学協会が統一見解を公表
 日本考古学協会前・中期旧石器問題調査研究特別委員会は2002年5月の日本考古学協会大会において、準備段階を含めて1年半に及ぶ活動の総括的な報告を行い、藤村が関与した遺跡のうち検証作業を行った30遺跡すべてについて「学術資料として扱うことは不可能」とする統一見解を公表した。藤村が関与したとされる遺跡は180か所を超えるが、検証した遺跡のすべてが捏造と断定されたことの意味は大きい。これにより藤村が関与した全遺跡の学術的価値が事実上否定されたことになり、日本の前・中期旧石器時代研究は約25年前に戻って再出発しなければならなくなった。日本考古学協会は、2002年度中に正式な検証調査報告をまとめるとともに、日本旧石器時代研究の再構築に向けて動き始める考えを示した。