MIYAGI ARCHAEOLOGY INFORMATION Vol.27 2002.7.20



多賀城市 多賀城跡外郭南門地区北西部(現地説明会:2001.10.06)

 特別史跡多賀城跡は、奈良時代から平安時代にかけて古代陸奥国統治のために中央政府が設置した国府(国の役所)の跡で、奈良時代には軍事を担当する鎮守府も置かれていた。発掘調査は1960年に始まり、1969年には宮城県多賀城跡調査研究所が設置され継続して調査研究にあたっている。多賀城跡の規模は約900m四方で、周囲に築地塀や材木塀などの外郭区画施設をめぐらせ、南・東・西に門があった。城内のほぼ中央の政庁で重要な政務・儀式などが行なわれ、これを取り巻くように城内の丘陵平坦部を利用して行政実務を行なう官衙施設が配置されていた。政庁南門の南約310mの位置にある外郭南門跡の傍には多賀城碑があり、神亀元年(724年)に大野東人が多賀城を設置したこと、天平宝字6年(762年)に藤原恵美朝?が多賀城を修造したことなどが記されている。
 今回は外郭南門跡の西側約45mの範囲を調査した(第72次)。この結果、外郭南門跡西側の築地塀跡と、南門跡北側の政庁‐南門間道路跡の一部を検出した。築地本体はほぼ6m単位で積み手の違いが確認され、両側に約3m間隔で掘立式の寄柱が立てられていた。また、奈良時代から平安時代にかけて4回の補修が行なわれていた。築地塀の基礎整地の下からは築地塀構築時に壊して埋められた古墳時代の横穴墓2基が確認された。道路跡は、南門北側では本来の路面が流失しているものの、西側側溝とみられる溝跡2条と路面下の整地層を確認した。溝跡は曲線的に西に折れ、築地塀に至る。また、江戸時代(18世紀)に遡る可能性のある多賀城碑覆屋の瓦が出土したほか、多賀城碑西側の自然石に刻まれた江戸時代の文字「寛政五年九月十八日 東者□□□□□」も発見された。