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多賀城跡第72次発掘調査‐外郭南門地区北西部の調査‐
現地説明会:2001.10.06  調査主体:宮城県多賀城跡調査研究所
 
 特別史跡多賀城跡は、奈良時代から平安時代にかけて古代陸奥国統治のために中央政府が設置した国府(国の役所)の跡で、奈良時代には軍事を担当する鎮守府も置かれていた。
 多賀城跡の規模は約900m四方で、周囲に築地塀や材木塀などの区画施設をめぐらせ、南・東・西に門があった。城内のほぼ中央の政庁で重要な政務・儀式などが行なわれ、これを取り巻くように城内の丘陵平坦部を利用して行政実務を行なう官衙施設が配置されていた。調査が行なわれた外郭南門地区は、政庁南門の南約310mの位置にある。

外郭南門跡の西側約45mの範囲を調査した。築地塀は基底部の幅約3m、高さ約1.5mが残存し、地形に沿って傾斜していた。版築と呼ばれる工法で土を突き固めて作られている。

築地本体はほぼ6m単位で積み手の違いがみられ、異なった土の積み方をしている。また、両側に約3mおきに掘立式の寄柱が立てられていた。奈良時代から平安時代にかけて、4回の補修が行なわれていた。

左:築地塀(奥)構築のために壊されて埋められた2基の横穴墓(手前)。
右上:外郭南門跡の柱の位置。南門跡の西側に今回調査した築地塀が取り付き、さらに西側には植栽で復元整備された築地塀が続いているのが見える。
右下:多賀城碑には、神亀元年(724年)に大野東人が多賀城を設置したこと、天平宝字6年(762年)に藤原恵美朝?が多賀城を修造したことなどが記されている。発掘調査区はこの裏側。

まとめ
  • 外郭南門跡西側の築地塀跡と、南門跡北側の政庁‐南門間道路跡の一部を検出した。
  • 築地塀の構築方法が明らかになり、約6mごとに積み手の違いが確認された。また奈良時代から平安時代にかけて4時期の補修の痕跡が確認され、築地塀の基礎整地の下から築地塀構築時に壊して埋められた横穴墓2基を確認した。
  • 政庁‐南門間道路は、南門北側では本来の路面が流失しているものの、西側側溝とみられる溝跡2条と路面下の整地層を確認した。溝跡は曲線的に西に折れ、築地塀に至る。
  • 江戸時代(18世紀)に遡る可能性のある多賀城碑覆屋の瓦が出土した。
  • 多賀城碑西側の自然石に刻まれた江戸時代の文字「寛政五年九月十八日 東者□□□□□」も発見された。
参考文献
宮城県多賀城跡調査研究所2001「多賀城跡第72次調査現地説明会資料‐南門地区北西部の調査‐」