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多賀城廃寺方面へ延びる道路跡を確認
所在地 遺跡名 現説日 調査主体 更新日
多賀城市高崎 市川橋遺跡 10/12 多賀城市埋蔵文化財調査センター 12/15
資料:多賀城市埋蔵文化財調査センター2002「市川橋遺跡‐第29次調査‐現地説明会資料」
 市川橋遺跡は隣接する山王遺跡とともに、奈良・平安時代に陸奥国府が置かれていた多賀城跡のある丘陵を西から南に取り囲むように位置する。多賀城から南にのびる幅23mの南北大路と、これにほぼ直交する幅12mの東西大路を基準として計画的に町並みがつくられていたことが分かっている。
 1998年度から城南土地区画整理事業に伴う事前調査が進められており、これまでに古代都市多賀城の幹線道路である南北大路・東西大路や東西・南北の小路、河川と橋、役人の住まいなど多数の遺構が発見されている。
 今回の調査では、東西大路の延長線上で110mにわたって小路(南北0道路)が延びているのを確認した。東西大路は多賀城跡から南に延びる南北道路にほぼ直行する道路で、今回さらに東側に南北0道路が確認されたことで、約500m東に位置する多賀城廃寺跡まで道路が延びていた可能性が出てきた。また、南北0道路の南側には東3道路が接続していることを確認。南北0道路には路面を横断する排水溝があり、丸太材によって橋が架けられていた。

南北0道路の路面と側溝(西から)。
写真右端で東3道路が接続している。

南北0道路と東3道路の接続部分(西から)。
写真左は南北0道路の南側溝。

南北0道路の路面と橋脚部分(西から)。路面を横切る排水溝に橋が架けられていた。

南北0道路の路面を護岸する杭列(西から)
      
溝跡から出土した桧扇(ひおう・左)と馬櫛(まぐし・右)