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豊富な植物性食料資源の存在を裏付け
所在地 遺跡名 現説日 調査主体 更新日
桃生郡鳴瀬町 里浜貝塚第8次発掘調査(西畑北地点) 12/14 奥松島縄文村歴史資料館 12/15
資料:奥松島縄文村歴史資料館2002「史跡里浜貝塚第8次調査現地説明会資料」
 松島湾北東部の宮戸島にある里浜貝塚は、いくつもの地点貝塚の総称で、国内最大規模の貝塚として知られている。東西約640m、南北約200mの広がりの中で、縄文時代前期初頭から弥生時代にかけての集落が少しずつ位置を変えながら展開していた。鳴瀬町が進める史跡公園整備(2007年春完成予定)に必要なデータを得るための発掘調査が平成8年度から実施されている。
 今回調査された西畑北地点は里浜貝塚北西部にあり、縄文時代晩期中頃(約2500年前)の厚い貝層が確認されている西畑地点の北約100mに位置し、東西を丘陵に挟まれた北西に開く入り江状の地形になっている。これまでの調査で標高3m程の微高地部分では縄文時代晩期中葉〜弥生時代中期の製塩遺構や貝層、低地部分では縄文時代中期末から後期初頭の泥炭層の堆積が確認されている。
 今回は古環境の変遷の解明や木製品など有機質遺物の発見が期待される泥炭層部分が調査された。この結果、入り江状の部分は潮の干満によって形成された干潟であったことが判明した。出土した遺物は少量の縄文土器片などで木製品などは発見されなかったが、約5700年前(縄文時代前期)の堆積土中から多量のクリの花粉が検出されたほか、クワ・マタタビ・タラノキの花粉やクルミ・トチの殻などが見つかり、当時の里浜には魚介類だけでなく植物性の食料資源も豊富に存在していたことが明らかとなった。また、約3500年前(縄文時代後期)の堆積土中に、短期間に海岸から運ばれたとみられる厚さ20〜40cmの砂礫層が3枚確認され、大規模な津波の痕跡である可能性が考えられるという。

現地説明会風景。手前の調査員が立っている位置が縄文時代前期の地層(南から)。50mほど北側(写真奥)に現在の海岸線がある。

調査区の土層断面(南壁)。上部と中ほどの白く見える層が砂礫層。最下部の黒く見える層が縄文時代前期の泥炭層。

西畑北地点の全景(東から)。

出土した縄文時代前期の土器片。