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石を並べた複式炉のある縄文時代の竪穴住居跡

仙台市 長町駅東遺跡 (飛鳥・奈良時代)
遺跡データ
遺跡名 長町駅東遺跡(ながまちえきひがしいせき)
所在地 仙台市太白区あすと長町3丁目
調査主体 仙台市教育委員会
調査原因 商業施設建設・宅地造成に伴う事前調査
公開日 2008年8月2日(土) 10:00〜
参考資料 「長町駅東遺跡発掘調査(37街区) 遺跡見学会資料」仙台市教育委員会 2008.8.2
「長町駅東遺跡発掘調査(40街区) 遺跡見学会資料」仙台市教育委員会 2008.8.2


遺跡見学会の様子
今から1300年ほど前の飛鳥時代、飛鳥の都で大化の改新がはじまりました。大和朝廷は、それまで一部の有力な豪族を中心に進められていた不安定な政治を改め、法律を定めて天皇を中心にした中央集権国家を作ろうとしたのです。

新しい国家は法律に基づいて各地に国や郡を定め、それぞれに役所が置かれました。仙台平野の中央部、広瀬川と名取川に挟まれた郡山遺跡にも、大化の改新から程なくして役所が造られました。

この頃の仙台平野より北は、大和朝廷の支配が及んでおらず、都の人びとから蝦夷(えみし)と呼ばれた人びとが暮らす土地でした。朝廷は東北地方の蝦夷を新しい国づくりに参加させるため、いち早く仙台平野に役所を建設したのです。

長町駅東遺跡は、役所が造られた郡山遺跡の西隣にあります。仙台市の長町副都心建設計画に先立って平成10年から発掘調査が行なわれてきました。

これまでの発掘調査で、400軒以上もの竪穴住居跡が密集して折り重なるように発見されています。これらの竪穴住居跡は、郡山遺跡に役所があったのと同じ頃に作られたことが分かっています。

また、竪穴住居の作られた場所は、大きな溝と塀で囲まれていました。当時、普通の集落では溝や塀を作ることはありませんでした。

このため考古学者や歴史学者らは、長町駅東遺跡で見つかった集落には郡山遺跡の役所や寺院の建設や運営にあたった人びとが暮らしていたのではないかと考えています。

また、住居跡から出土した土師器(はじき)と呼ばれる土器には、当時の東北地方の人びとが作っていたものとは違い、関東地方の人びとと同じ作り方で作った「関東系土師器」がありました。

当時の東北地方には、大和朝廷によって関東地方からたくさんの移民が送り込まれたことが続日本紀に記録されています。

歴史書に書かれた記録と発掘調査で見つかった「関東系土師器」の存在から、長町駅東遺跡の集落にも遠く関東地方から移り住んだ人びとが暮らしていたことが分かるのです。

いくつもの竪穴住居跡が見つかっています。また、竪穴住居跡を壊して掘立柱建物が建てられていました。

竪穴住居跡。この住居では、柱の位置を外側にずらして床を広げる改築を行なっていました。

集落を取り囲む大溝(白い線の内側)と、材木を立て並べた塀(写真手前)の跡。

大溝跡は幅約4.5m、深さ約1mで、塀跡と並行して延びていました。

竪穴住居跡から出土した土師器。内側が黒く塗られたものは当時の東北地方で一般的に使われていたもので、黒く塗られていないものは当時の関東地方と同じ作り方で作られた関東系土師器です。

遺跡見学会の様子

発掘現場の周囲では新しい街の建設が進みます。
2008.8.9更新