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石を並べた複式炉のある縄文時代の竪穴住居跡

仙台市 六反田遺跡・大野田古墳群 (奈良時代)
遺跡データ
遺跡名 六反田遺跡(ろくたんだいせき)・大野田古墳群(おおのだこふんぐん)
所在地 仙台市太白区大野田字竹松・宮脇
調査主体 仙台市教育委員会
調査原因 富沢駅周辺土地区画整理事業に伴う事前調査
公開日 2008年8月2日(土) 13:30〜
参考資料 「六反田遺跡・大野田古墳群発掘調査 遺跡見学会資料」仙台市教育委員会 2008.8.2


六反田遺跡で発見された南北4間×東西2間の掘立柱建物跡(柱と柱の間を1間と数えます)。建物の大きさは南北12m、東西5mで、約100m東側で見つかっている建物跡と規模・方向が同じでした。床の下にも柱がある総柱式で、強固な構造の建物でした。
仙台市の富沢駅周辺では、土地区画整理事業で整備される道路の建設に先立って平成6年度から遺跡の発掘調査が進められています。

これまでの発掘調査で、真北方向を基準にした大型の掘立柱建物跡が4棟発見され、それらの建物群を取り囲むように巡る大溝跡も発見されました。

今回の発掘調査では、六反田遺跡と大野田遺跡で大型の掘立柱建物跡がそれぞれ1棟ずつ発見されました。いずれも東西に約100mほど離れたところで見つかっているものと大きさと造りがほぼ同じでした。

また、掘立柱建物跡がある場所の南側では大溝跡が見つかり、南北250m、東西150m以上の範囲を四角く取り囲んでいることが判明しました。大溝で区画された場所に、整然と建物が配置されていたのです。

これらの大溝や建物は、いったいいつ頃のものなのでしょう? それは、同じ地層から出土した土器などから知ることができます。

今回、六反田遺跡で見つかった掘立柱建物跡では、建物が使われなくなった後に柱が抜き取られていました。その、柱を抜き取った跡にできた穴の中から、8世紀前半頃(約1,300年前)の土師器(はじき)や須恵器(すえき)と呼ばれる土器、それに瓦の破片が出土しました。

この土器が建物で使われていたものかどうかははっきりとは分かりませんが、遺跡の発掘調査ではこのようにして建物などの作られていた年代を推定することができるのです。

それでは、この大溝や整然と並ぶ建物は、1,300年ほど前にいったい何のために造られたのでしょう?

この頃の一般的な人びとの住まいは、竪穴住居と呼ばれる家で、通常はムラの周りを溝で囲むようなことはありませんでした。

今回見つかった大きな建物や大溝は、当時の役所などの特別な施設の跡だと考えられるそうです。

どうしてこの場所に役所のような施設が作られたのか? そして、どんな役割があったのか? 記録には残されていない仙台の歴史が、これからの発掘調査でさらに解き明かされていくことでしょう。

上の写真の掘立柱建物跡の柱穴の一つです。一番外側の穴が柱を立てるために掘られた穴で、その内側が柱を抜き取るために掘られた穴です。穴の底には柱が立っていた痕跡が残っていました。

掘立柱建物跡の柱穴(抜き取り穴)から出土した土器や瓦から、ここに建物が建てられていた年代が分かりました。

大野田古墳群で発見された南北10間×東西2間の掘立柱建物跡。建物の大きさは南北24m、東西5.5mで、約100m西側で見つかっている建物跡と規模・方向が同じでした。

上の写真の掘立柱建物跡の柱穴の一つです。一番外側の穴が柱を立てるために掘られた穴で、その内側が柱を切り取るために掘られた穴です。さらに中央には切り取られて残った柱の痕跡が残っていました。

建物が建てられていた場所を取り囲んでいた大溝の跡です。大溝は幅2mほどで、南北250m、東西150m以上の四角い区画が作られていました。

遺跡見学会の様子

遺跡見学会の様子
2008.8.14更新