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石を並べた複式炉のある縄文時代の竪穴住居跡

蔵王町 鍛冶沢遺跡 (縄文時代・弥生時代)
遺跡データ
遺跡名 鍛冶沢遺跡(かじさわいせき)
所在地 刈田郡蔵王町大字曲竹字鍛冶沢
調査主体 宮城県教育委員会
調査原因 広域営団地農道整備事業仙南2期地区に伴う事前調査
公開日 2008年9月13日(土) 10:30〜
参考資料 「蔵王町鍛冶沢遺跡 平成20年度発掘調査現地説明会資料」
宮城県教育委員会 2008.9.13
「仙台市史 通史編1 原始」仙台市史編さん委員会 1999


発掘した場所を東側から見た様子。中央に見えている山が青麻山です。
蔵王山の東麓に雄々しくそびえる青麻山の裾野には、縄文時代の後期から晩期(今から約4,000〜2,000年前)にかけて、いくつかの大きなムラがつくられていました。

鍛冶沢遺跡もその一つで、昭和の初め頃に完全な形の土偶が採集されるなど、縄文時代の土器や石器が豊富に出土する遺跡として早くから知られていたようです。

蔵王町曲竹地区では、白石市と川崎町を結ぶ広域農道の建設が進められています。この道路建設予定地内には鍛冶沢遺跡をはじめとするいくつかの遺跡が含まれていたことから、工事で破壊される部分を中心に発掘調査が行なわれています。

今回の発掘調査では、縄文時代晩期の中頃(今から約2,700〜2,600年前)に建てられた掘立柱建物跡が見つかりました。

掘立柱建物跡は4本の太い柱を用いたもので、4〜5棟が弧を描くように並んで建てられていました。同じ場所に何度も建てられていて、多いところでは8回も建て直されていたそうです。

また、弧状に並ぶ掘立柱建物跡の内側では、縄文時代晩期から弥生時代前期(今から約3,000〜2,200年前)の墓地跡が見つかりました。

縄文時代晩期の墓跡は、穴を掘って大型の甕を埋めたものですが、弥生時代前期の墓跡はそれよりもやや小さな小さな壷に蓋をして埋めたもので、再葬墓と呼ばれています。

再葬墓というのは、いったん土中に埋葬した遺体を再び掘り出して、遺骨を壷に納めて埋葬したお墓のことです。弥生時代の北関東や南東北で行なわれていた風習だそうです。

このように、今回発掘した場所では当時の人びとの一般的な住まいである竪穴住居跡はあまり見つからず、墓地とそれを取り囲むように立てられた4本柱の掘立柱建物跡が見つかりました。

このような掘立柱建物跡が当時どのように使われていたのかは、よく分かっていません。葬送儀礼や、ムラのまつりに関わるものなのでしょうか。

鍛冶沢遺跡は東に開けた沢地に面した場所にあります。竪穴住居跡などが建てられたムラの中心は、今回発掘された場所よりも標高の高い場所であったようです。墓地や掘立柱建物跡が見つかった場所は沢地に近い遺跡の東端で、ムラを出入りする人々を見守る特別な場所だったのかもしれません。

昭和の初め頃に鍛冶沢遺跡で採集された土偶。写真右のレントゲン写真を見ると中が空洞になっているのが分かります(仙台市博物館蔵・仙台市史通史編1)。

発見された掘立柱建物跡。4〜5棟が弧を描くように並んで建てられていました。建物の跡は調査した場所の外側へも続いているので、輪を描くように並んでいたのかもしれません。

掘立柱建物跡。4本柱で、一辺が4〜5mの正方形をしています。同じ場所に繰り返し建て直されているのが分かります。

掘立柱建物跡。多いところでは8回も建て直されていました。どのようにして使われたのでしょう。

掘立柱建物の柱を立てるために掘られた穴の跡。丸く窪んでいる部分は、柱が立っていた跡です。使われていた柱の直径は太いもので40cmもあったそうです。

縄文時代晩期の墓の跡。非常に大型の甕が埋められていました。

現地説明会の様子。たくさんの礫を埋めた穴が見つかり、これも墓の跡である可能性があるそうです。

弥生時代前期の墓の跡。岩の隙間に3つの壷が埋められていました。

出土した縄文時代晩期の土器。

弥生時代前期の墓の跡から出土した土器。

現地説明会の様子。

現地説明会の様子。

縄文時代後期の土器と一緒に出土したヒスイの勾玉。
2008.9.15更新