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政庁創建時の石垣を発見−大規模な土木工事を裏付け

多賀城市 多賀城跡(奈良時代)
遺跡データ
遺跡名 多賀城跡(たがじょうあと)
所在地 多賀城市市川・浮島
調査主体 宮城県多賀城跡調査研究所
調査原因 学術調査
公開日 2008年10月25日(土) 10:00〜
参考資料 「多賀城跡第80次調査現地説明会資料<政庁南面地区・田屋場地区の調査>」
宮城県多賀城跡調査研究所 2008.10.25


現地説明会の様子(田屋場地区)
 多賀城跡は、奈良・平安時代の中央政府が陸奥国(当時の東北地方の太平洋側)を治めるために設置した国府(国の役所)の跡です。奈良時代には鎮兵(兵士)を統率する鎮守府も設置され、政治・軍事の両面で陸奥国経営の拠点でした。

 多賀城は多賀城市市川・浮島地区の丘の約900m四方を築地塀や材木塀で取り囲んでおり(外郭)、城内の中央には重要な政務や儀式を行なう政庁が置かれていました。また、城内には役所の業務を行なう建物のまとまりがいくつもあり、今で言う官庁街のような様相でした。

今回の発掘調査は外郭南門跡周辺(田屋場地区)と、政庁南面地区で行なわれました。

 多賀城の城外の南側には、碁盤の目状に大路・小路で区画された街並みが広がっていたことが分かっています。田屋場地区では、外郭南門から城外の街並みへ伸びる南北大路跡を発見しました。

 街並みに伸びる南北大路跡と同様に一度造り直されており、幅18mから幅24〜27mに拡幅されていることが判明しました

 政庁南面地区では、8世紀前半に政庁を造るときに行なわれた整地と、石垣の一部が発見されました。石垣は、整地した際の盛土を押さえる目的で築かれたと考えられます。

 石垣はほとんどが崩れ落ちており、下部の石列がわずかに残っていました。周囲の地形や崩れ落ちた石材の様子などから、造られた当時は1〜2mほどの高さがあったと考えられるそうです。

田屋場地区で発見された南北大路跡を北から見た様子。写真手前が外郭南門側。写真奥には城外の町並みが広がっていました。

南北大路の東側で見つかった掘立柱建物跡(田屋場地区)。南北大路と方向を揃えて建てられていました。

現地説明会の様子(政庁南面地区)。政庁の南側を造成した時に造られたとみられる石垣を正面(南側)から見た様子。

政庁西側の石垣を横(南側)から見た様子。石材の前面を揃えてまっすぐに並んでいるのが分かります。

政庁南面の様子。石段の上に政庁がありました。写真左の林の奥が今回の調査場所です。
2009.5.21更新