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政庁創建時の石垣を発見−大規模な土木工事を裏付け

東松島市 赤井遺跡(飛鳥・奈良時代)
遺跡データ
遺跡名 赤井遺跡(あかいいせき)
所在地 東松島市赤井字照井中
調査主体 東松島市教育委員会
調査原因 遺跡西部の区画施設内部の状況把握を目的とした学術調査
公開日 2008年11月22日(土) 13:00〜
参考資料 「赤井遺跡−古代牡鹿柵・牡鹿郡家・豪族居宅跡推定地−
平成20年度発掘調査(第40次調査)現地見学会資料」
東松島市教育委員会 2008.11.22


現地見学会の様子
石巻海岸平野の西端にある赤井遺跡には、古代牡鹿郡の豪族「道嶋氏」に関わる豪族居宅や、役所(「牡鹿柵(おしかのさく)」または「牡鹿郡家(おしかぐうけ)」)が存在したと考えられています。

昭和61年に始まった発掘調査で、材木塀や大溝によって区画された内部に配置された掘立柱建物跡や竪穴住居跡が発見され、奈良時代の役所跡であることが判明しました。出土した土器には「舎人」、「牡舎人」などの文字(舎人(とねり)は古代官人の役職名)が書かれたものもありました。

また、遺跡の近くには豪族や役人たちの墓と考えられている矢本横穴墓群があり、「大舎人」と書かれた土器などが出土しています。当時のムラと役所、墓がセットで調査されている全国的にも貴重な例だそうです。

今回の発掘調査は、遺跡の西部で見つかった材木塀と大溝による区画の内部の状況を知ることを目的として行なわれました。

調査では、飛鳥時代の竪穴住居跡11軒と、奈良時代の掘立柱建物跡10棟などが見つかりました。

飛鳥時代の竪穴住居跡には一辺が9.8mもある県内最大級のものもあり、集落の中で特別な役割の人が住んでいた可能性があるそうです。また、出土した土器には当時の関東地方の人々の技法で作られたものがあり、関東地方から移住してきた人々が暮らしていた可能性があるそうです。

奈良時代の掘立柱建物跡は、どれも荷重に耐える強固な構造で、高床式の倉庫と考えられるものです。当時の役所には、税として徴収した米を収める倉が立ち並ぶ「正倉(しょうそう)」が作られました。今回見つかった建物群は、古代牡鹿郡の役所の正倉だった可能性が考えられるそうです。

倉庫と考えられる建物跡の中には、他より大型で強固な構造を持つ土壁づくりのものがあり、材木塀と大溝で囲まれていました。正倉の中でも重要な物を収める特別な倉であったと考えられるそうです。

今回の調査で、周辺が古代牡鹿郡の役所の中枢地区である可能性が高まりました。役所の中心施設である「政庁(せいちょう)」も付近に存在したと考えられ、今後の調査が期待されます。

奈良時代の建物群の様子。

奈良時代の建物群の様子。建物の内側にも同じ太さの柱がある「総柱式」で、倉庫だったと考えられます。

大型の建物跡。塀と溝で囲まれた特別な倉庫だった可能性があります。

大型の建物跡。屋根を支える側柱(がわばしら)の内側に、床を支える束柱(つかばしら)が立てられていました。

出土した遺物。当時の関東地方の人々の技法で作られた土器などがあります。写真手前は、大型の建物跡に使われていた柱材で、直径55cmもあります。
2009.5.31更新