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漆紙文書に戸籍の筆頭者示す「戸頭」の墨書

多賀城市 山王遺跡(平安時代)

遺跡データ
遺跡名 山王遺跡(さんのういせき)
主な時代 平安時代(9世紀〜10世紀前半)
主な遺構 道路跡(北1東西道路跡)、漆工房に関係するゴミ捨て穴
主な遺物 土師器、須恵器、漆紙文書、鉄製の小刀
所在地 多賀城市山王
調査主体 多賀城市教育委員会
調査原因 山王地区公民館建て替え工事に伴う事前調査
公開日 2009年5月30日(土) 10:30〜
参考資料 「山王遺跡第68次調査 現地説明会資料」 多賀城市教育委員会

山王遺跡は、古代(奈良・平安時代)の陸奥国府(こくふ:国の役所)が置かれていた多賀城跡の南西に広がる遺跡です。

多賀城の南側一帯には、多賀城の南門から伸びる「南北大路」と、これに交差する「東西大路」を中心にして碁盤の目状の街並みが広がっていました。

山王遺跡ではこれまでに、東西・南北の道路跡や、国司(こくし、都から派遣された国の役人)が暮らした「国守館(くにのかみのたち)」などが見つかっています。

今回の発掘調査では、「東西大路」の北約120〜130mのところに平行して走る「北1東西道路跡」が発掘されました。

道路跡は平安時代(9世紀〜10世紀前半)に使われていたものです。道幅約2.5mほどで、側溝は3回掘り直されていました。

また、道路跡の北側で平安時代(10世紀前半〜中頃)のゴミ捨て穴が見つかりました。ここからは、漆の付着した土器と一緒に「漆紙文書(うるしがみもんじょ)」が出土しました。

「漆紙文書」というのは、不要になった文書を漆の入った容器の蓋紙にし、それに漆が染み込んだことによって、腐らずに残った古代の文書のことです。

今回調査された場所の近くには、漆を使用して漆器などを作る職人の工房があったのかもしれません。

「漆紙文書」の一つには、「□部□主(丈部田主?:はせつかべのたぬし)」という人名と、「戸頭(ことう)」の文字が書かれていました。

「戸頭」は現在の戸籍の筆頭者を表す用語で、この文書がもともとは役所などで使われた行政文書だったことを示しているそうです。

残された文字資料が少ない地方の古代史や、多賀城が果たした行政的な役割などを知る上でとても貴重な発見です。

今回の調査ではこのほかに、古墳時代前期(4世紀)の水田を区画する畦畔(けいはん:あぜ)の可能性がある土手状の高まりが見つかりました。

水田跡は山王遺跡の別の地点でも発見されており、周辺では多賀城が造られる以前の早い時期から、平野の開発が進んでいたことを示しています。
平安時代(9世紀〜10世紀前半)の道路跡。道幅約2.5mで、赤いテープが張られたところが側溝の跡です。
古墳時代前期(4世紀)の水田跡の区画の可能性がある土手状の高まり(調査員が指し示している部分)。
説明会の様子。あいにくの雨天のため、山王地区公民館の室内でスライドを上映しながらの説明。
説明会の様子。会場には約150人ほどの市民らが詰めかけ、調査員の説明に興味津々の様子でした。
平安時代の刀子(とうす:鉄製の小刀)。手前のものは保存状態が良く、木製の柄が腐らずに残っていました。
出土した漆紙文書。右奥のイラストのように、漆工房で漆を保存する容器の蓋紙として使われた物です。漆が付着した部分だけが腐らずに丸く残りました。 漆紙文書に書かれた文字を映し出す赤外線カメラ。肉眼では文字は良く見えませんが、右の赤外線カメラで撮影すると、左のモニタにくっきりと文字が映し出されます。
「戸頭」の文字が書かれていた漆紙文書。全体に漆が付着して焦げ茶色に変色していますが、墨の残りは良いそうです。良く見ると肉眼でも一部の文字を判読することができました。 赤外線カメラの映像。画面下に「戸頭」の文字が見えます。上部には「□部□主(丈部田主?)」という人名が書かれているそうです。
2009.6.1更新