上高森遺跡検証発掘調査終了報告


2001年11月12日 上高森遺跡検証発掘調査団

T.上高森遺跡検証発掘調査の実施経緯

1.遺跡名:上高森遺跡

2.所在地:宮城県栗原郡築館町上高森61−57

3.発掘調査の目的
 宮城県上高森遺跡は東北旧石器文化研究所によって1993(平成5)年から2000(平成12)年まで6次にわたる発掘調査が行われ、その調査結果は国内外の学会でも公表され、また教科書や副読本などでも掲載されるなど、教育、学術、文化の面で大きな影響を与えてきた。上高森遺跡に端を発する一連の旧石器ねつ造問題は、学界はもちろんのこと、社会と教育に混乱を与え、考古学への不信感をもたらし、それは現在ますます深刻になっている。われわれ考古学研究者はねつ造を見抜けずこのような混乱を招いたことを真摯に反省し、問題の検証とその社会に対する説明に努力すべきものと考える。とくに上高森遺跡の土地所有者の方と築館町民の皆様は、2000年11月5日のねつ造発覚以来、上高森遺跡が遺跡であるか否かの不安を抱えながら1年を過ごされてきた。そのような状態をこれ以上放置することは、社会的にも許されるものではないし、考古学研究者としてまことに耐え難いことである。ここに上高森遺跡検証発掘調査団を結成し、藤村新一氏のねつ造行為を含む上高森遺跡の従来の調査結果を関連科学分野の研究者とも連携しながら検証し、遺跡の学術的意義の有無を確認することとなった。 

4.上高森遺跡検証発掘調査団の調査体制
 当調査団は、日本考古学協会(会長:甘粕健新潟大学名誉教授)、東北日本の旧石器文化を語る会(代表:加藤稔東北芸術工科大学名誉教授)、宮城県考古学会(代表:桑原滋郎東北歴史博物館学芸部長)が推薦した調査員と事務局員から構成され、さらに発掘調査の客観性を確保するために指導助言委員会を設置する。なお、下記の調査協力機関・協力者に随時ご協力頂く。
 @調査主体 上高森遺跡検証発掘調査団:団長 佐川正敏(東北学院大学教授)
 A指導助言委員会:委員長 須藤 隆(東北大学教授:考古学)、委員 加藤 稔(東北芸術工科大学名誉教授:考古学)、小林達雄(國學院大學教授:考古学)、 菊池強一(岩手県立西和賀高等学校校長:地質学)、桑原滋郎(東北歴史博物館学芸部長:考古学)、白石浩之(愛知学院大学教授:考古学)            
 B調査事務局:局長 辻 秀人(東北学院大学教授)、局員 佐々木和博(仙台図南萩陵高等学校教諭)、高橋誠明(古川市教育委員会)、矢島國雄(明治大学教授)、渡辺清子(宮城県考古学会会員)
 C調査員:〔考古学〕阿子島 香(東北大学教授)、荒井 格(仙台市教育委員会)、熊谷常正(盛岡大学教授)、大竹憲昭(長野県埋蔵文化財センター)、佐久間光平(宮城県考古学会会員・日本考古学協会会員)、渋谷孝雄(山形県埋蔵文化財センター)、須田良平(宮城県考古学会会員・日本考古学協会会員)、諏訪間順(小田原市教育委員会)、戸田哲也(玉川考古学研究所所長)、藤原妃敏(福島県立博物館)、柳沢和明(宮城県考古学会会員・日本考古学協会会員)、柳田俊雄(東北大学教授)、山口卓也(関西大学博物館)、山田晃弘(宮城県考古学会会員・日本考古学協会会員)、〔地質学〕町田洋(東京都立大学名誉教授)
 *調査協力機関・協力者:〔地元〕築館町教育委員会、奈良坂 茂(上高森遺跡土地所有者)、大場英昭(築館町公民館高森分館長)、〔地質学・年代測定学等〕大村一夫(大和地質研究所)、早田勉(古環境研究所前橋研究所所長)、長友恒人(奈良教育大学教授)、八木浩司(山形大学助教授)、宮城豊彦(東北学院大学教授)〔考古学〕梶原 洋(東北福祉大学教授)、鎌田俊昭(東北旧石器文化研究所理事長)            
5.調査期間:2001(平成13)年10月29日〜11月11日(14日間)

6.発掘面積:500u(内訳:検証目的で再発掘調査する東北旧石器文化研究所による   第1〜6次調査区の総面積300u〈調査延べ面積650u〉に、本調査団が検証   のために新たに発掘調査した200uを加える)

7.従来の調査と藤村新一氏のねつ造行為
 @従来の調査:上高森遺跡は1992(平成4)年8月に東北旧石器文化研究所の藤村新一氏と鎌田俊昭氏によって発見され、1993(平成5)年から6次にわたって同研究所による発掘調査が行われた()。
第1次 1993(平成5)年11月19日〜11月23日 , 30u, 石器22点
第2次 1994(平成6)年10月30日〜11月5日  ,280u, 石器65点
第3次 1995(平成7)年10月28日〜11月5日  ,110u, 石器29点
第4次 1998(平成10)年10月30日〜11月8日 ,140u, 石器30点
第5次 1999(平成11)年10月19日〜11月3日 , 80u, 石器46点
第6次 2000(平成12)年10月21日〜10月31日,110u, 石器69点

 A藤村新一氏のねつ造行為
*2000(平成12)年11月に発覚し、藤村氏が認めた部分:第6次調査の埋納 遺構6〜11と石器
*2001(平成13)年9月に告白した部分:A地点(第1次・2次)と第4〜6次分のB地点:藤村氏がねつ造に関して告白したのは、計6次調査のすべてに対してではなく、各次の調査においても詳細な証言をしたわけではない。また、告白の信憑性の問題も検証が必要である。したがって、告白を以てねつ造問題の全容が解明されたわけではなく、調査団は学術調査が不可欠と考える。

8.検証発掘調査の内容と実施経緯
 @検証発掘調査の内容
  *第1〜6次調査の旧調査区(A・B地点)の精査:ねつ造行為残余の検証等。
  *遺構の検証:第6次調査で遺構と認定されたものとねつ造遺構(埋納遺構6〜11)の検証、第2〜5次調査の埋納遺構の検証。
  *石器の分布の広がりの検証:ねつ造行為がなければ、石器の分布が旧調査区外に広がると予想される隣接地を6ヶ所発掘調査した。
  *テフラを含む土層堆積状況を人類の生活環境や石器の付着物との関わりで再検討した。日本考古学協会前・中期旧石器問題調査研究特別委員会第3作業部会等関連科学分野の研究者、たとえば東京都立大学名誉教授の町田洋氏(日本考古学協会総括部会委員)等の協力を得た。
  *年代測定の再検討(奈良教育大学教授長友恒人氏等の協力を得た)

 A検証発掘調査の実施経緯
  10/29〜10/30:調査区の設定。旧調査区の埋土の除去と清掃。A-1〜3区・B-1〜3区の旧文化層付近までの掘り下げ。
  10/30〜11/6:A地点旧調査区とA-1〜3区の調査と精査、同左実測・写真撮影。B地点旧調査区の清掃開始。
  11/2:13:00〜15:00に指導助言委員会を開催する:A地点の調査成果について。
  11/3〜11/10:B-1〜3区の調査、同左実測・写真撮影。とくに11/3〜11/6は歴史考 古学研究者の協力を得てねつ造遺構を含むB地点旧調査区の遺構を検証。
  11/8:9:00〜11:00に指導助言委員会を開催し、調査成果を検討・総括し、その結果を11:00〜12:00に報道機関に対して発表した。14:00〜16:00に日本考古学協会前・中期旧石器問題調査研究特別委員会総括部会来跡。
  11/10:調査の補足(A地点北端の露頭の精査)。
  11/10:13:30〜15:00に現地説明会を実施し、約100名が来跡した。
  11/11:調査区の埋め戻しと現場撤収。

  なお、調査中記録と遺跡の保全については万全を期した。後者については、他の検証発掘調査に鑑み、毎日の調査終了時の現場をビデオやデジタルカメラで記録し、翌日の現場と比較した。
  報道機関に対しては15:00に現場で毎日の調査結果の報告を行い、また、ホームページ(アドレスはhttp.//www.miyagi-ann.org/ktm/)を開設し、毎日の調査結果を掲示し、情報公開に努力した。

9.発掘調査成果の整理と報告書の刊行
 これらの作業は以下の@、Aの計画で調査員が協力または分担して行い、調査団長が責任をもってとりまとめを行う予定である。その際、必要に応じて指導助言委員の指導と助言を受ける。なお、図面や写真等の記録類は東北学院大学に保管し、作業は基本的に東北学院大学で実施する。
 @発掘調査成果の整理:11/12〜11/30に東北旧石器文化研究所保管の第1〜6次調査の図面の写しを含めた図面と写真の整理を行いながら、調査成果を総括する。その際に宮城県考古学会等が検証中の第1〜6次調査で発見された石器に対する評価とのすりあわせを行うことになる。
 A報告書の刊行:12/1〜1/10に図版類のトレースとレイアウトを行い、同時に調査員が分担して執筆する。調査団長はそれらを責任をもって編集し、2002(平成14)年3月31日を目途に刊行し、関係機関に配布する。なお、調査成果については学会等で公表する。



U.上高森遺跡検証発掘調査の結果

1.調査区の選定
 @A地点(
  A−1区:A10では1次調査で16層(高森14テフラ;Tm−14)直下で石器11点が、A9でも2次調査でTm−14直下で石器12点が出土した。東北旧石器文化研究所等はそれぞれを2つの石器のまとまり(直径1.5m程度)とみなしたが、直径約3mの1つのまとまりの東半分と見ることも可能である。
  いずれにせよ、これらの石器の分布は旧調査区西壁に接しており、さらに西側に広がる可能性がある。そのことを確認するためにA−1区(1m×6m)を設定した。
  A−2区:A14では1次調査でTm−14直下で石器11点が出土した。東北旧石器文化研究所等は石器の西側への広がりを確認するために、西へ拡張(1m×3m)して調査したが、石器は発見されなかった。これについて東北旧石器文化研究所等は、拡張区ではTm−14やその下位の17層上部が現代の開墾に伴う掘削で削平されたという見解を示した。A15では2次調査でTm−14直下で石器13点が出土した。東北 旧石器文化研究所等はそれぞれを時期の異なる2つの石器のまとまりとみなした。
  今回、A14では調査区の西側をさらに拡張(1m×3m)して平面と断面の両方から1次・2次調査結果(Tm−14直下出土石器の出土状況)を検証する。A15ではTm−14直上検出とされる石器の分布は旧調査区西壁に接しており、さらに西側に広がる可能性があるので、そのことを確認するために拡張区(1m×3m)を設定した。 これら2つの拡張区をA−2区と総称する。
  A−3区:藤村氏は1994年8〜9月にA地点北端にある露頭の倉ノ沢第1テフラ (Ks−1)の数cm下位で数点の石器を発見した。その直後に藤村氏以外の方が近接した位置で石器を発見したという情報もある。今回この露頭に隣接する位置にA−3区 (13m×8m)を設定し、かつてKs−1直下の地層で石器が発見されたことを検証する。

 AB地点(
  B地点で2次〜6次調査で検出された石器のまとまりのほとんどは、調査区内で完結している。その中で調査区壁際で石器が検出されている以下の3カ所を選定し、調査区を設定した。
  B−1区:5次調査A0で16層上面から3点の石器が出土した。その南への広がりを確認することが目的である。
  B−2区:B地点の旧調査区の大部分の石器は、3ラインより北で出土している。隣接する4次調査D4で9層上面から出土した3点の石器を含めて12層、16層、18層、19層の各上面での石器の有無について検証する。
  B−3区:6次調査D11で61層上面西北隅から3点の石器が出土した。その西北への広がりを確認することが目的である。
  さらにB地点では、建物跡などの遺構と認定されたものと藤村氏がねつ造した遺構についても検証を行う()。

2.調査の経緯と結果
 @A地点(
  A9・10とA−1区:10/29からA9・10の埋土を掘り上げ、旧調査区底面を検討した。Tm−14直下の17層上部を数cm掘り下げてだめ押し(石器の有無をさらに確認)していることがわかったが、とくに旧調査区底面に異常は認められなかった。10/30からA−1区を掘り下げ、Tm−14の直上と直下で精査を行うが、石 器は発見されず、石器の西への広がりは確認されなかった。17層上部を数cm掘り下げてだめ押ししたが、石器は発見されなかった。11/1から地層断面図の作成を行い、旧調査区の畦を除去したが、石器はなかった。
  さらに、調査区の西壁と東壁の地層を検討中に17層上面に開口し、東から西へ低く傾斜する自然流路を検出し、埋土にはTm−14を含んでいた。この流路は2次調査でも「Tm−14起源の撹乱」として認識されていたが、流路の実際の幅は当時認識されていた幅より広いことがわかった。そこでTm−14直下で出土したとされる石器のまとまり21点の位置を流路との関係で改めて照合してみると、南端の2点の石器は流路の位置に重なることが判明した(,)。この2点の石器は流路に巻き込まれた状態ではなく、他の19点の石器とほぼ同一レベルで安定した状態で発見された。Tm−14降下直前の19点の石器とTm−14降下後の2点の石器が同一の平面に安定して存在することはありえないことである。
  A14・15とA−2区:10/29から旧調査区の埋土を掘り上げ、旧調査区底面を検討した。図面に記録されたレベルの検討によって、底面は石器の検出面であり、だめ押し作業はしていないことを確認した。底面での異常は認められなかった。10/3 0からA−2区を掘り下げ、Tm−14の直下と直上で精査を行うが、石器は発見されなかった。A14寄りでは西への拡張部分のTm−14等が現代の開墾時に削平された可能性は否定できなかった。つまり、A14の石器の西への広がりについては検証不可能である。
  11/1からA15では2次調査で不十分であったTm−14の検出を行った結果、その残存状態が良好であることがわかったが、Tm−14直上の石器は西、北、東へ広がっていなかった。さらに、畦中を含むA15のTm−14を除去したが石器は発見さ れず、A14のTm−14直下の石器が北へ広がらないことも確認された()。
  A−3区:10/29から重機掘削を実施してKs−1上面を検出し、10/31からKs−1を掘り下げて除去した。しかし、Ks−1直下の黄白色土からも、黄白色土の下の白色土上部からも、石器は発見されなかった。11/10にA地点北端にある露 頭を精査したが、石器が新たに発見されることはなかった。ただしKs−1下位の黄白色土で1994年の石器発見時に発見位置を示すために打たれた釘2本が見つかった。
  *なお、1次調査で発掘されたA12では従来石器は出土していない。10/29〜10/30に埋土を掘りあげ、18層(Tm−13)上部まで検出していたことを確認 した。最終検出面などにとくに異常は認められなかった。

 AB地点(
  B−1区:11/2から調査を開始し、16層上面に到達し精査したが、石器は発見 されなかった。さらに16層上部を数cm掘り下げたが、石器は依然発見されなかった。
  B−2区:従来の調査で石器が出土していない地層を重機で除去し、7層(Tm−1)下部か8層上面を検出した状態であった。11/2からTm−1を掘り下げる作業を開始し、11/8に13層(Ks−1)に、11/10には14〜16層に到達した。しかし、旧調査区で石器が出土した9層上面、12層上面、16層上面のいずれでも石器 は発見されなかった。また、従来細分されてきた14〜16層は本来1つの堆積層であり、従来生活面として把握された16層上面も石器の発見と遺構の認定によって認識されたにすぎないことが判明した。なお、B−2区東半には北西方向に走る谷があることが確認された。
  B−3区:従来の調査で石器が出土していない55層付近までの地層を重機で除去し 11/3から掘り下げを開始した。B−3区北半で縄文時代の陥穴が発見されたので、当面南半の地層を掘り下げて62層上面に到達した。しかし、旧調査区で石器が出土した59層上面と61層上面では石器は発見されなかった。
  遺構の検証:B地点の16層上面から上部にかけて従来遺構と認定された建物跡(柱穴:Pit)と土坑は()、水の作用で浸透したマンガンと酸化鉄の影響で斑状 あるいはアメーバー状に16層が変色した部分を誤認したと判断された()。
  ねつ造遺構の検証:土坑1・4・8底面の埋納遺構9・8・10は、それぞれ地層の変色を誤認して掘り下げられた痕跡の底面に、さらに工作されたものである()。 6次調査でねつ造された埋納遺構6は調査区外で見つかったものだが、白色土とその現 代の撹乱土を掘ったものであることが判明したが、このことは6次調査では確認されていなかった()。6次調査でねつ造された埋納遺構6〜11を除く他の単独の埋納遺構については、埋納遺構1・2・4はすでに展示等のために切り取られ、埋納遺構3は調査で失われ、埋納遺構5は底面等が掘りきられたことから、検証発掘調査中の検証が不可能であった。
  不自然な石器の発見:11/8に旧調査区F9〜10の37上面から石器(剥片)3点(bP〜3)が発見された()。精査の結果、3点の石器の周囲には@パレットナイフ状の薄手で先のやや尖った工具痕が残されている、A石器と接触した地層部分は薄っすらと汚れている、B石器とそれが接触した地層部分との間の隙間に根が入り込む等の痕跡が残されていたことから、これらは現代の工作によって挟み込まれた石器であることが判明した。また、これら3点の位置は、2000年にねつ造された石器が発見された位置と重なる(p.7)。なお、この周辺の37層を発掘したが、石器は発見されなかった。石器3点の痕跡は11/11に切り取り、現在東北芸術工科大学で保存処理中である。
 
3.調査のまとめ
 @A地点とB地点で従来石器が発見された隣接地計6カ所で調査したが、石器はまったく発見されなかった。とくに石器の広がりが予想されたA−1区等で石器がまったく発見されなかったことは、不自然なことである。なお、ねつ造された石器3点が見つかった。
 AA地点のA9・10等では水の作用で鉄分が浸透した痕跡である褐鉄の広がりが認められる。しかし、ここで出土した石器には褐鉄が膜状に付着していない点は不自然である。
 BA地点のA9・10でTm−14直下で検出されたという石器のまとまりのうち南端の2点は、じつはTm−14を含む自然流路に重なって、すなわち流路上で見つかったことが判明した。Tm−14直下の石器と降下後の石器が同一生活面に存在することは、ありえないことであり石器検出面で何らかの工作があったことは明らかである。
 CB地点の旧調査区で遺構と認定されていたものは、地層がマンガンや酸化鉄の影響で変色した部分を誤認したことが判明した。 
 DB地点14〜16層は同一地層であり、石器や遺構の誤認で認定された16層上面という生活面は存在しないことが判明した。
 E来跡した地質学等の専門家は一致して、19層以下の地層が水成堆積であるという見解を示された。それより上位の地層の堆積環境については見解が分かれており、今後専門家によって継続した議論、検討が進められる必要がある。
 F以上より、上高森が旧石器時代の遺跡である可能性はきわめて低いが、今後石器の検証結果とすりあわせながら正式報告書において遺跡に対する最終評価を行いたい。なお、縄文時代の陥穴が1基発見されたので、縄文時代の遺跡であったことが判明した。