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木簡に「修理所」「馬庭」 多賀城 文献資料裏付け
古代陸奥国を治めた国府多賀城跡の城外にある市川橋遺跡(宮城県多賀城市)から出土した木簡に、施設の造営や修復を担う組織「修理所(しゅうりどころ)」と、馬の訓練や競技を行う場所「馬庭(ばば)」の文字が全国で初めて確認され、多賀城市教育委員会が1日発表した。市教委は「古代多賀城や兵士の実態を明らかにするうえで、第一級の資料」としている。
木簡は「修理所 送兵士馬庭□事」(□は不明)で始まり、「修理所、兵士を馬庭に送り□事」と読み下せる。馬の訓練所の修繕に兵士が派遣されたことを示している。
長さ35.7センチ、幅6.9センチで、8世紀後半から823年までのものと推定される。「鳥取部敷成□」「丈部子醜麻呂」など遣わされた兵士の名前も両面で15人分確認できる。
律令(りつりょう)制下の兵士の仕事は戦地へ赴くほか、城や堤防の造営、修理、軍馬の飼育などと規定された。今回の木簡は出土文字資料として初めて平時の兵士の活動を裏付けるもので、市教委は「兵士・軍国制の実態解明につながる」と説明する。
また、修理所や馬庭の存在についても「文徳実録」(9世紀半ば)や「殿暦」(1109年)など文献資料では知られていたものの、これまで出土文字資料で確認された例はなかった。
市川橋遺跡は多賀城政庁跡の南面にあり、木簡は昨年8月、第45次調査で地表から2メートル下の地点で見つかった。市教委は出土場所付近に馬庭があったとみている。
市教委文化財課の高倉敏明課長は「過去25年間の発掘調査の中でも非常に重要な成果。古代多賀城や日本の古代史を考えるうえで貴重な発見だ」と話している。
この木簡は、8日から10月2日まで多賀城市埋蔵文化調査センターで開かれる速報展「発掘された遺跡」で展示される。
<軍制の実態を表す/国立歴史民俗博物館の平川南教授(古代史)の話>
木簡が記された時期は東北で軍事的緊張が高まっており、軍馬の維持管理が重要だった。「馬庭」が古代の地方都市で確認されたのは初めてで、意義のある資料だ。一般の兵士が平時に土木工事に従事していたことも、当時の軍制の実態をよく表していて興味深い。
2005年06月01日水曜日 河北新報
<写真>
多賀城市の市川橋遺跡から出土した木簡(右が表、左が裏)と文字配置図(多賀城市教委提供)
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