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延長270m以上の区画施設跡
―官衙跡南側に街並みの存在示唆―


加美郡宮崎町壇の越遺跡
―宮崎町教育委員会(報道発表7月27日/一般説明会7月29日)―

 4月から行われているほ場整備事業と県道改修工事に伴う遺跡中央部の発掘調査で、延長270m以上の区画施設跡を発見した。北東に約700m離れた台地上には、古代陸奥国賀美郡家(ぐうけ)跡と推定される東山遺跡があることから、区画施設で囲まれた一帯には郡司などの役人の屋敷や職人の工房などが集まった街並みが形成されていたと考えられる。
 区画施設跡は南北に「く」の字状に延び、西辺にあたるとみられる北側の約30mは丸太を立て並べた材木塀、南辺の約240mは粘土を突き固めた築地塀で、外側に大溝跡がめぐる構造。宮崎町教委では築地塀の高さは4m〜4.5mほどだった推定しており、これに取り付く形で約100mごとに作られていた3〜3.5m四方の小規模な掘立柱建物跡は櫓跡ではないかとしている。
 古代の役所の周辺には、役人の屋敷や役所と密接な関わりを持つ施設が展開していたと考えられており、こうした状況が実際に発掘調査によって明らかになった例は、古代陸奥国府多賀城跡の南側に位置する山王・市川橋遺跡(多賀城市)がある。壇の越遺跡でもこのような街並みが小規模ながら展開されていたと考えられるが、今回はこうした街並みの外側に櫓を伴う区画施設が存在したことが分かり、古代地方都市の様相を窺わせる貴重な例だ。
 区画施設は東山遺跡南側の上位段丘面の縁辺を西・南・東の三方から囲んでいたとみられ、内側は、東山遺跡の南門から延びる南北の道と出羽国に通じる東西の道をメインストリートとして地割がなされていたと推定される。賀美郡は西側を古代出羽国(秋田・山形県)と接しており、宮崎町教委では奈良時代から平安時代初めにかけて陸奥・出羽で続いていた政治的軍事的な緊張状態が区画施設を作らせた要因ではないかとしている。

写真左:築地跡(左側のオレンジ色の土が帯状に露出している部分)と大溝跡。
大溝跡から掘り上げた粘土を築地に使ったとみられる。
築地跡の高さは4m〜4.5mほどだったという(写真左奥の撮影用のタワーは高さ4m)。
写真右:壇の越遺跡と東山遺跡(右奥の大地上)。


遺跡内からは役所との関連を窺わせる遺物が出土した。写真左は円面硯(えんめんけん)と呼ばれる硯の一種。写真右は東山遺跡の基壇に使われた「せん」と呼ばれるレンガ状の焼き物。

参考文献
宮崎町文化財保護委員会1992「よみがえる古代のロマン―賀美郡衙 東山遺跡―」
宮崎町教育委員会・宮城県教育委員会2000「壇の越遺跡現地説明会資料」