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陸奥国大地震の被災跡―9世紀に津波が大路破壊―

多賀城市 市川橋遺跡
―多賀城市埋蔵文化財調査センター(報道発表9月14日/一般説明会9月16日)―

 9世紀後半の水害により、大路の路面や側溝が大きく破壊された痕跡を確認した。被害は南北200m以上と広範囲に及び、古代都市多賀城の基幹道路であった南北・東西大路が利用できなくなるほどの影響を及ぼしている。
 調査した多賀城市埋蔵文化財センターでは被災した年代などから「日本三代実録」の貞観11年(869年)5月26日条に記された陸奥国大地震によるものと推測。津波で川が逆流し、激流が多賀城を襲ったとみられる。
 平安時代の勅撰史書で901年に成立した「日本三代実録」には、この地震によって多賀城は大きな被害を受け、城下には津波が押し寄せたと述べられている。国府関係の建物も大きな被害を受け、地震後には「陸奥国修理府」が設置されたと伝えられている。
 これまでの発掘調査により、城内では地震による大規模な改修の様子が明らかになっているが、城外における津波については今回検出した大規模な水害の跡がそれを物語っており、史料の記載を裏付ける貴重な発掘成果だ。
 また、今回の調査で南北・東西大路の細かい変遷も明らかとなり、側溝からは「伊具郡小川里公廨」と書かれた木簡や「延暦十年」と年代を記した木簡が出土した。区画の使われ方や大路の年代を知る手掛かりになるとみられる。
 市川橋遺跡は奈良・平安時代に陸奥国府が置かれていた多賀城跡のある丘陵を西から南に取り囲むように位置する。多賀城から南にのびる幅23mの南北大路とほぼ直交する幅12mの東西大路を基準として計画的に街並みがつくられていたことが分かっている。現在調査が進められているのは二つの大路が交差する付近で、重要な役割を担った施設が存在したと考えられている。

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参考文献
多賀城市埋蔵文化財調査センター2000
「市川橋遺跡現地説明会資料」
多賀城市史編纂委員会1997
「多賀城市史1 原始・古代」