宮城考古学情報みやぎ遺跡発掘2000>桃生城跡

続日本紀の「海道の蝦夷」蜂起を裏付ける築地塀と櫓跡

桃生郡河北町・桃生町 桃生城跡
―宮城県多賀城跡調査研究所(報道発表9月21日/一般説明会9月23日)―

 桃生城は奈良時代の歴史書である「続日本紀」に造営とその後の経緯が詳しく記されている。文献資料で造営と廃絶の経緯がわかる古代の役所は数少なく、考古学的な調査と併せて検討できる極めて重要な遺跡だ。創建は天平宝字3年(759年)頃で、9世紀初頭に征夷大将軍・坂上田村麻呂による征討が行われるまで続いた律令国家と蝦夷の戦いの発端となった古代の城柵とされている。
 これまでの8次にわたる調査で、東西800m、南北650mの政庁の内容が明らかとなり、外郭は土塁や大溝、材木塀などで囲まれていたことが分かっている。政庁の東西の丘陵には実務的な役割を果たしたとみられる官衙(かんが、役所)が配置されていた。
 今回の調査は桃生城北西部にあたる丘陵平坦地で行われた。この地区には桃生城外郭北辺中央部から分岐して南にのびる土手状の高まりが観察され、城内を東郭と西郭に大きく二分する区画施設と考えられていた。この土手状の高まりの西側に広がる丘陵平坦面は「続日本紀」にある「西郭」と考えられているが、どのように利用されていたのかは分かっていなかった。
 今回の調査は、西郭における官衙の様相の把握と城内を二分する区画施設の構造と年代の解明を目的に行われた。この結果、竪穴住居跡2軒、築地塀跡と大溝跡、櫓跡を発見した。
 城内を東西に二分する土手状の高まりについては、築地塀跡であることが判明し、西側に約6m離れて平行する大溝跡も発見された。築地塀の東側には隣接して櫓が造られていたが、一度建て替えられた後築地塀と共に火災にあって焼失している状況が確認された。発見された櫓跡は外郭北辺中央の分岐点で発見されている櫓跡から約80m南に位置している。陸奥国府として知られる多賀城跡でも約70-80mおきに櫓が造られており、桃生城でも区画施設の各所に櫓が配置されていたとみられる。
 西郭の一部をなす今回調査した丘陵では、桃生城廃絶期前後の8世紀末の竪穴住居(工房)跡が1棟見つかったのみであり、桃生城存続期の8世紀中頃には官衙域としては利用されていなかったことが分かった。
 築地塀と櫓に見られた火災の痕跡は、政庁と同様に宝亀5年(774年)の沿岸部の現地住民による「海道の蝦夷」の蜂起を示すものとみられ、「続日本紀」の記載を裏付ける貴重な成果が得られた。
左:築地塀に取り付くように造られた櫓とみられる建物跡。
右:築地塀の跡と大溝(手前)。大溝の土を版築(はんちく)工法で積み上げて築地塀を造った。


左:築地塀の崩壊土中から発見された鉄製の角釘(長さ約12cm)。櫓に使用されていたと考えられる。
右:現地説明会風景。手前は奈良時代終わりごろの竪穴住居(工房)跡。

参考文献
宮城県多賀城跡調査研究所2000
「桃生城跡現地説明会資料」