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築城期石垣の構造がさらに明らかに
―現存石垣は各期の石垣を巧みに再利用―


仙台市青葉区仙台城本丸跡
―仙台市教育委員会(報道発表6月29日/一般説明会6月2日)―

 昨年度の調査で初めて発見された、仙台藩祖伊達政宗による17世紀初頭の築城期(一期)の野面積みの石垣が新たに別の場所でも確認された。既に発見されている東西方向の石垣と合わせ、一期石垣の残存規模は全長40m以上、高さ4.5m以上に及ぶことが分かり、発掘調査によって確認されたこの時期の石垣としては国内最大級であることが明らかになった。
 昨年度の調査で一期石垣は、三期石垣東側の内側で東西方向に並ぶ22mが見つかっている。今回確認された一期石垣は南北方向に並ぶ三石で、東西方向の石垣と「L」字型に連なるとみられる。
 また、三期石垣の東側下部を調査したところ、一期石垣の十数年後に造られたとされる二期石垣が、三期石垣の一部となる形で存続していることも確認された。
 仙台城は伊達政宗が関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600)12月24日に築城を開始し、慶長7年5月には一応の完成をみたとされている。その十数年後に起きた地震により石垣が倒壊し、二期石垣が造営された。さらに50年後に起きた大地震で再び倒壊し、現存する三期石垣が造営された。
 石垣の変遷からは、幾多の地震災害との戦いの中で各時代の技術者が試行錯誤を繰り返した様子がうかがえる。三期石垣が現在まで300年間も存続してきたのは、各期の石垣を効率的に再利用し、排水などの機能を補い合うことで構造的に強度を高めた結果といえよう。
 このほか、解体中の三期石垣から、「御用石」と朱書きされた石材が発見された。以前発見されている「石伐(いしきり)」などの朱書石材との関連から、仙台市教委では石切り場や石材集荷場から仙台城へ石材を搬入する際の記入とみている。
 本丸平場の北西部では天皇や将軍を迎える「御成門」などの礎石と考えられる石材が5か所で確認された。
 また、二期石垣構築時の盛土から将棋の駒「歩」も発見された。以前発見された「慶長十二年」(1607)銘木簡と同一層準からの出土で、江戸時代初期の出土例として貴重であるという。 
 
仙台城本丸跡の遺構平面図と石垣北東部の俯瞰写真(クリックすると大きくなります)


石垣東部で確認された二期石垣の再利用の様子。
三期石垣上奥に見える野面積みの二期石垣が、三期石垣の基部に顔を出している。
崩れ残った二期石垣がそのまま三期石垣の基部として機能していることが分かった。
 写真は仙台市教育委員会2000「第6回仙台城本丸跡発掘調査現地説明会資料」および「仙台市文化財パンフレット第43集・仙台城本丸跡の発掘」から引用しました。仙台城本丸跡のこれまでの発掘調査成果についての公式発表は、仙台市教育庁文化財保護課仙台城跡発掘調査状況がWEB上でご覧になれます。

参考文献
仙台市教育委員会2000「第6回仙台城本丸跡発掘調査現地説明会資料」
仙台市教育委員会2000「仙台城本丸跡の発掘」仙台市文化財パンフレット第43集