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二の丸跡の建物配置が明らかに―絵図の記載を裏付け―

仙台市青葉区 仙台城二の丸跡
―東北大学埋蔵文化財調査研究センター(報道発表9月28日/一般説明会9月30日)―

 江戸時代のおおむね3時期の遺構面を確認し、文献記録に残る文化2年(1804年)の雷火による二の丸全焼を示すとみられる火災の痕跡を発見した。また、19世紀代と考えられる地層では塀の跡と考えられる遺構が見つかり、配置と形状が同じ19世紀の絵図である「文化元年御家造絵図写」とほぼ一致した。絵図は文化6年の二の丸再建に向けて描かれたとされ、二の丸の建物群の様相を知ることのできる貴重な資料。
 仙台城二の丸の建物群についてはこれまで、絵図と発掘調査の検出遺構の対応関係を検討し、位置推定を行っていたが、決定的な証拠に欠けていた。今回の調査では複雑に折れ曲がっている19世紀の塀跡が発見され、絵図に描かれた塀とほぼ同様の形状をしていることが確認された。センターでは「細かな調整は今後も必要だが、二の丸の建物群全体の配置が今回の調査で確定した」としている。
 文化元年の火災の後には整地を行っていることも明らかとなり、二の丸地区の変化を考えていく上で貴重な手掛かりとみられる。また、この火災に伴って一括して廃棄されたと考えられる陶磁器などが出土した。これらの遺物は年代が明確なことから、東北地方の同時代の遺跡を研究していく上で重要な資料という。明治15年(1882年)の火災により二の丸が廃絶した時期の地層からは現在の福島県波江町周辺で作られた大堀相馬焼などの陶器が多量に出土し、幕末に二の丸の建物の屋根を飾り、明治になって鎮台に引き継がれていたとみられる鬼瓦一対も見つかった。
 また、15世紀後半から16世紀前半に中国の景徳鎮で作られた「青花アラベスク・梵字紋小皿」が18世紀の遺構に混入して出土した。同様の皿は青森県浪岡町の浪岡城跡内館など戦国時代の城館からは普遍的に出土するが、高級品ではないことから18世紀まで伝世したとは考えにくいという。こうしたことからセンターでは、仙台城築城以前の戦国時代に国分氏が築城した千代城に関連する遺構が残されている可能性もあるとみて、さらに下層の調査を進めることにしている。
仙台城二の丸跡中奥の建物配置の様子と今回の調査地点(黄色-絵図、青-調査区、赤-検出遺構)。


肥前産磁器(伊万里)


京焼

漆椀


簪(かんざし)


鬢水入(櫛に鬢油を浸す容器)

明治15年の火災に遭った
とみられる鬼瓦(一対)



軒丸瓦(九曜紋と三引両紋)
18世紀の遺構に混入していた戦国期の「青花アラベスク・梵字紋小皿」(表裏)と
青森県浪岡城跡内館出土の同種の皿。


現地説明会風景

参考文献
東北大学埋蔵文化財調査研究センター2000
「仙台城二の丸跡第17地点現地説明会資料」