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石を並べた複式炉のある縄文時代の竪穴住居跡

利府町 硯沢窯跡 (奈良時代・平安時代)
遺跡データ
遺跡名 硯沢窯跡(すずりさわかまあと)
所在地 宮城郡利府町春日字硯沢
調査主体 利府町教育委員会
調査原因 三陸自動車道(仮称)春日PA設置工事
公開日 2008年10月4日(土) 13:00〜
参考資料 「宮城県利府町硯沢窯跡 発掘調査現地説明会資料」
利府町教育委員会 2008.10.4


発掘調査した場所を南東から見た様子。周辺はなだらかな丘陵地帯です。中央を走る三陸自動車道を挟むように2か所で調査が行なわれました。
古代陸奥国府多賀城跡(多賀城市)の北東約5km、利府町東部(春日・赤沼地区)の丘陵地帯ではたくさんの窯跡が発見され、春日窯跡群と呼ばれています。

硯沢窯跡は、東西2.7km、南北2.1kmの広大な範囲に広がる春日窯跡群の西端にあります。昭和60年に三陸自動車道建設工事に伴って発掘調査が行なわれ、多賀城が造られた奈良時代(8世紀前半)に須恵器を焼いた窯跡16基などが発見されています。

今回の調査は、三陸自動車道(仮称)春日PAの建設工事に伴って行なわれました。昭和60年に須恵器窯跡が発見された地点の西側で、奈良時代(8世紀前半)に須恵器を焼いた窯跡2基と、奈良・平安時代に木炭を焼いた炭窯跡6基などが見つかりました。

須恵器窯跡は斜面上方に向かって地面をトンネル状に掘り込んで造られた地下式の窖窯(あながま)です。トンネルは手前から奥に向かって高くなっていて、手前の焚口(たきぐち)で薪を燃やします。一番奥には煙出(けむりだし)と呼ばれる穴があいていて、煙突の役目を果たしています。焚口と煙出の間が須恵器を並べて焼く燃焼室です。

焚口の手前には作業場と灰や失敗品を捨てる捨て場があり、ここからたくさんの須恵器が出土しました。見つかった須恵器の特徴から、ここで須恵器が焼かれたのが奈良時代(8世紀前半)で、多賀城が造られた頃であることが分かりました。焼かれた須恵器は多賀城などへ運ばれたのでしょう。

出土した須恵器の中には「宮城」・「宮木」の文字が刻まれたものがありました。当時の郡名を記したもので、「宮城」の文字が記された遺物としては最古の例だそうです。

木炭を焼いた炭窯跡は、斜面上方に向かって地面をトンネル状に掘り込んで造られた地下式木炭窯4基と、横口式木炭窯2基が見つかりました。

横口式木炭窯は斜面と平行に地面をトンネル状に掘り込み、両端に焚口と煙出を設けるもので、焼成室の側面に6か所の掻出口があります。8世紀前半頃のもので、県内では初めての発見です。

古代の木炭窯跡は製鉄炉跡と一緒に発見されることが多く、福島県相馬地方から宮城県亘理地方の製鉄遺跡群では大量に武器などを生産して多賀城などへ供給していたと考えられています。多賀城にほど近い春日窯跡群でも、製鉄が行なわれていた可能性が高いそうです。

須恵器窯跡の様子。手前が薪を燃やす焚口で、奥に向かって高くなっています。天井は崩れ落ちていましたが、壁は焼けて石のように硬くなっていました。とても高い温度で須恵器を焼いていたことが分かります。

須恵器窯跡を上から見た様子。手前が煙突の役目を果たした煙出です。窯跡はこのように丘の斜面を上手に利用して造られていました。

横口式木炭窯の様子。手前にあいている穴が焚口で、調査員が立っている場所が作業場です。

横口式木炭窯の様子。左端に焚口があり、見学者の前にあいている小さな穴が煙出です。天井は崩落していましたが、掻出口が6か所あったことが分かります。

横口式木炭窯の焚口。壁が真っ赤に焼けて硬くなっています。

須恵器窯跡から出土した須恵器。

須恵器窯跡から出土した須恵器。

「宮城」の文字が刻まれた須恵器。

「宮木」の文字が刻まれた須恵器。

昭和60年に調査された須恵器窯跡から出土した須恵器。奈良時代(8世紀前半)に生産されたもので、多賀城などへ運ばれました。

昭和60年に調査された須恵器窯跡から出土した須恵器。円面硯(えんめんけん)という硯で、役所で役人が墨を磨って文字を書くときに使いました。
2009.3.22更新