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語りはじめた本丸石垣-災害と修復の歴史-

仙台市青葉区 仙台城本丸跡
―仙台市教育委員会(一般説明会11月26日)―

 仙台城は、仙台藩祖伊達政宗が慶長5年(1600年)の関が原の戦いの後、青葉山の丘陵上に築城を開始した山城。広瀬川や竜の口渓谷などの自然地形を巧みに利用した天然の要害として山上に本丸が築かれ、2代藩主忠宗によって二の丸の造営が始まった。
 老朽化と隣接する道路の交通量増加が地盤にもたらした影響などから、変形や石材の破損が生じていた本丸北東部の石垣の解体修復工事に伴い、仙台市教育委員会が平成9年から発掘調査を実施してきた。9,106石に及ぶ現存石垣の解体と石垣背面の土砂掘削に伴う発掘調査によって、これまで全く知られていなかった本丸石垣の構造や変遷が確認された。
 発掘調査では大きく分けて3時期の石垣と、本丸平場の建物や庭園跡のほか、伊達氏以前の中世国分氏の山城であった千代城の虎口と呼ばれる門跡なども発見された。
 石材には当時の石工が刻んださまざまな文字や記号が確認され、中には「慶安五年八月十五日」(1652年)の記年銘のある石材も発見された。「寛文」や「石伐」などと朱書きされた石材もあり、石材の切り出し・運搬・加工・積み上げなどの作業工程を知る手がかりとなりそうだ。
 石垣背面の盛土からは40トンを越す大量の瓦が出土し、国内最北の出土例となる金箔瓦17点が発見された。金箔瓦は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康によって使用が制限されていたことから、江戸初期の仙台藩と幕府の関係を考える上で重要な意味を持つという。
 このほか、地震によって破損したために廃棄されたと考えられる中国産・国産の陶磁器やヨーロッパ産のガラス器、蒔絵の椀、「慶長十二年」銘の木簡、土師質土器、水晶など、本丸での暮らしぶりを窺わせる多彩な遺物が出土した。
 仙台市教育委員会では発掘調査成果を公開する現地説明会を開催。今後石積み工事が本格化するため、現場で3時期の石垣遺構を間近に見ることができる最後の機会となった。説明会には約1300人の市民が参加し、調査員の丁寧な説明に聞き入った。

- 仙台城本丸石垣の変遷 -
・築城期(1期)石垣 仙台城築城期、伊達政宗により慶長5-6年(1600-1602年)にかけて構築され、元和2年(1616年)の地震によって倒壊したと推定されている。発掘調査では断片的に4地点で確認され、絵図に描かれていない石垣の形状が明らかになった。地山を50-60度の勾配で階段状に切り出し、加工の少ない自然石を積み上げた野面積みで、石垣は48度前後の緩い勾配を持つ。

現存(3期)石垣の内側から見つかった築城期(1期)石垣東端部のの断面図。
・2期石垣 元和2年(1616年)の地震による1期石垣の倒壊後に伊達政宗によって構築され、正保3年(1646年)の地震後に一部修復、寛文8年(1668年)の地震で大きく倒壊したと推定されている。発掘調査では寛文地震で倒壊を免れた東端部分を検出した。自然石や割石を用いた乱層積みで、60度前後の勾配を持つ。表面は鑿による整形がみられ、背面には裏込石や内部に排水施設を持つ大規模な版築状の盛土がある。
・現存(3期)石垣 寛文8年(1668年)の地震による2期石垣倒壊後に4代藩主綱村により構築され、寛文13年(1673年)以降も修復工事が継続していたことが文献に記されている。四角錘形に加工した切石の成層積みで反りを持ち、約70度の勾配があり、敷金で精密な角度調整を行っている。石材には「#」や「○」などの刻印が多く、「慶安五年」(1652年)銘の刻字や「寛文」銘朱書などから寛文年間(1661-1673年)以降の構築であることが判明している。
解体に伴う調査で、2期石垣の石材を利用した大規模な階段状石列と、2期石垣の排水施設を再利用しながら新たに面暗渠を施すという背面構造が明らかになった。東端部では崩れ残った2期石垣を取り外さず、背面や基部でそのまま再利用しているなど、古い石垣を巧みに再利用して構造を強化させている状況が確認された。
仙台城跡本丸北東部の石垣。手前が解体された現存(3期)石垣の基部で、中央奥が築城期(1期)石垣。左上から延びるのが2期石垣。2期石垣は工事用の黒いパイプのあたりで3期石垣に取り込まれているのが分かる。
関連記事:仙台城本丸跡築城期石垣の構造がさらに明らかに―現存石垣は各期の石垣を巧みに再利用―(報道発表6月29日/一般説明会6月2日)
仙台城本丸跡のこれまでの発掘調査成果についての公式発表は、仙台市教育庁文化財保護課仙台城跡発掘調査状況がWEB上でご覧になれます。

参考引用文献
仙台市教育委員会2000「仙台城本丸跡発掘調査・石垣について」
仙台市教育委員会2000「仙台城本丸跡の発掘」仙台市文化財パンフレット第43集

2000年11月27日付河北新報